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豪州映画『危険な年』(1982) [豪州映画]

この『危険な年』(The Year of Living Dangerously, 1982)は、私にとって忘れられない作品の一つです。私が豪州の作品と意識して映画を見始めたのは、初来日したピーターウィアー監督の講演を聴きに行ってからのことです。彼が豪日交流基金の招きで来日したのは1983年4月の下旬でした。霞が関(東京)の「日本プレスセンターホール」で、27日の夜に『オーストラリア映画産業の発展』と題して講演が行われたのです。ちょうど『危険な年』が発表された直後で、この作品のビデオ・クリップも紹介されました。そのような訳で、私の豪州映画への接触はウィアー監督の初来日の年から始まり、翌84年に『危険な年』が、そして86年に『ピクニック at ハンギングロック』(1975)が日本で劇場公開されたときには、しっかりとチェックして観ることができたのです。

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 ↑ ↑ DVD(左)、劇場用チラシ(右)

舞台は、1965年のスカルノ政権末期のインドネシアである。それまで独裁的な政権を握ってきたスカルノ大統領の力もさすがに衰えてきて、共産主義者やイスラム勢力が絡み合って対立する不穏な空気がインドネシアを覆っていた。そんな政情不安定なジャカルタに、オーストラリア人ジャーナリストのガイ・ハミルトン(メル・ギブソン)が赴任する。彼は中国系オーストラリア人のカメラマン、ビリー・クワン(リンダ・ハント)と知り合う。二人はコンビを組んで、特ダネを本国に送るようになる。ビリーはまた、英国大使館の秘書ジル・ブライアント(シガニー・ウィーバー)をガイに紹介し、二人は恋に落ちる。けれども、ガイは特ダネを追うあまりに身の危険にもさらされるようになり、インドネシアからの脱出を余儀なくされるのである。

この映画は、脚本も担当しているオーストラリア人作家C・J・コッシュ(1932- )の小説をベースに作られています。映画の前半部分は、当時のインドネシアの政治状況に疎いとわかりにくいのですが、動乱のインドネシアからガイが脱出しようとする後半部分はスリリングに描かれていて、手に汗を握る展開が楽しめるかとも思います。

ただ、劇場公開された1984年に観たときと、その後にDVD(ビデオ)で観直したときの印象とがかなり違ってきたのも事実です。ガイとジルが互いに惹かれあっていく描写にも粗さが目立ち、特ダネをものにしたいが為にガイがとる行動と、それによって彼自身の命が危険にさらされるスリリングな描写にも、映画館で観たときほどの迫力が感じられなかったのです。これは、その後の完成度の高まったウィアー作品と比較してしまうからなのでしょうか。けれども改めてこの映画を観たとき、この映画(原作となっている小説)の本当の主人公は誰なのかということを考えるようにもなったのです。

ところで話は少し脇道にそれるのですが、米国の作家マーガレット・ミッチェル(1900-49)の小説を映画化した『風と共に去りぬ』(1939)を知らない人はおそらくいないでしょう。この米国映画の大作は世界中で大ヒットして、今日まで繰り返し上映され続けてきています。実は、この『風と共に去りぬ』の豪州版ともいわれる小説が存在していました。それは、コリン・マカロック(1937- )によって1977年に発表された『ソーン・バーズ』という小説で、豪州はもとより英米でも大ベストセラーになったのです。

アウトバックと呼ばれる豪州内陸部で牧場を営むクリアリー家の一人娘メギーと、その牧場を管轄下に置くカトリック教区の神父ラルフ・ド・ブリカサールとの生涯にわたる恋愛長編小説です。そして、この小説も映画化の話が持ち上がり、『ピクニック at ハンギングロック』や『ザ・ラストウェーブ』(1977)で豪州映画界に名前を知られるようになっていたウィアーに、監督の話が持ちかけられたのです。この話に彼も初めは乗りかけたのですが、結果として監督を断りました。その理由はシナリオが気に入らなかったからで、ウィアー自身の言葉によれば「あまりにもメロドラマ的過ぎる」ということなのでした。

振り返ってみれば、男女の恋愛を扱ったウィアー監督の作品は多くありません。ここで取り上げる『危険な年』と、米国で作られた『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985)、そして『グリーン・カード』(1990)のみでしょう。そして、それぞれの作品では主人公の恋愛物語と並行して、『危険な年』ではインドネシアのスカルノ政権末期の政治状況が、『刑事ジョン・ブック/目撃者』ではアーミッシュの世界観が、『グリーン・カード』ではタイトルが示すグリーン・カードに絡んだ米国の移民受け入れ政策が重要な背景になっていて、いずれも恋愛物語だけに絞った作品ではないのです。

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 ↑ ↑ ガイとジル(左)、騒乱のジャカルタ市内でのガイ(右)

さて話を本筋に戻して、この映画『危険な年』の主人公は誰なのかを考えてみましょう。一見するとガイとジルのように思われますが、原作者であり脚本も担当しているコッシュの意図やウィアー監督の関心ある分野から推測すると、ナレーター役でガイとコンビを組むカメラマンの中国系オーストラリア人ビリー・クワンと考えられるのです。彼は自らの身体に受け継がれたアジアと西欧の血の狭間にあって、インドネシアという国でどのように生きていくかを模索しています。すなわち、この映画でウィアーが描きたかったのは、アジア(インドネシア)と西欧(豪州)という異なる世界観の間で揺れる中国系オーストラリア人ビリーの心の葛藤であると思われるのです。ちなみに、この映画の背景となる1965年の豪州はベトナムに派兵した年で、ベトナム戦争後のボートピープルに代表される難民が大量流入する以前であり、白豪主義の残滓(ざんし)も引きずっていて、西欧の一部と見なされていたのです。

ウィアー監督はビリーの心の葛藤を映像化するために、インドネシアの伝統芸能であるワヤン(影絵芝居)を巧みに取り入れています。このワヤンが重要な役割を担っているのは、冒頭からガムラン音楽が流れて、影絵芝居が演じられている場面で始まることでも推測できます。ワヤンについては古代インドから伝わったとされる説や、ジャワの神話や祖先信仰がヒンドゥー教と結びついて、歴代の国王が自らの祖先の物語を付け加えながら祖先崇拝の儀式として上演してきたという説など、渾然一体となって今日に至っています。影絵の投影用のスクリーンは目に見える現実の世界であり、影絵に使われる人形は神の創造物を象徴し、背後で演奏されるガムラン音楽は現世で起こるすべての事象の調和を表しているといわれています。そして人形操者は人形に生命を与えて、すべてを意のままに操ることのできる神の化身であり、人間の運命はすべて神の意中にあることを表しているというのです。

このワヤンに、ビリーは格別な関心を寄せています。彼はジャワ(インドネシア)を理解するにはワヤンを知ることだとガイに話します。ビリーはワヤンを現実世界に取り入れて、神の化身である人形操者になりきろうとしていたのではないでしょうか。彼は自らが関心を抱く人物の詳細なデータを集めてファイルを作り、現実世界のなかで彼らを自らの思い通りに動かそうとしていたと思われるのです。

まず、ガイの場合・・・。ビリーは以前にジルにプロポーズをするが断られ、自分が実現できなかったジルとの関係を、分身に見立てたガイを通して成就させようとします。ガイとジルはビリーの演出通りに互いに惹かれあっていくように見えます。そのようななかで、ジルは自らが得た極秘情報をガイに漏らします。PKI(インドネシア共産党)の武器を積んだ船がインドネシアに向けて出航するという情報です。彼女にしてみれば、また二人を操っていると思っていたビリーにしてみれば、PKIが武装蜂起してイスラム教徒との内乱になる可能性があるジャカルタからガイが脱出することを望んでのことでした。ジルにとっては、愛するガイの命を救いたい為の行動であったのです。けれどもガイは、ジルやビリーの意に反して特ダネをものにしたいが為に、そのネタの裏を取ろうとして動き回り、自らの命ばかりではなくジルの立場をも危うくさせてしまうのです。

また、ジャカルタの貧民地区に住む母と子供の場合・・・。母親である女性をビリーは養子にして、母子の面倒をみています。その息子は重篤の病に罹っており、ビリーは彼女に医者に診てもらうことを強くすすめます。けれども、その子供はビリーの意に反して亡くなってしまうのです。

そして、大統領スカルノの場合・・・。初め、ビリーはスカルノの政策に期待していました。けれども貧民地区の人々の生活は、彼の期待通りには一向によくなりません。ビリーは自らが信頼を寄せていた、あるいは愛情を注いでいたと思っていた人々が、ワヤンの人形のように思い通りには動いてくれずに、心のなかに動揺が広がっていきます。そして、自らの思うようにならない苛立ちを増幅させて、スカルノへの抗議のメッセージを掲げながら命を落としてしまうのです。

ビリーはアジアと西欧の異なる世界観の狭間で葛藤していました。西欧の価値観を代表するキリスト教は唯一絶対の神を戴く世界観ですが、ワヤンで描かれる世界では絶対という価値観はなく、森羅万象のものすべてが流動的なのです。神の化身である人形操者だと思い込んでいたビリー自身が、いつの間にか操られる人形になってしまっていたのです。けれども西欧的価値観も持ち合わせていた彼は、自分がいつまでも神の存在、すなわち人形操者であり続けられるとも思っていました。そのような異なる世界観のギャップのなかで、彼の心は破綻してしまったといえるのではないでしょうか。一般に西欧の人たちがアジアを舞台にして映画を作るときに、エキゾチシズムを前面に出す傾向が強くなります。ウィアー監督がビリーという混血の中国系オーストラリア人を通して、西欧とは異質なアジアのなかに一歩でも深く足を踏み入れて映画を作ったことは評価できると思うのです。

さらに、この映画の見どころの一つを挙げるとすれば、1965年のインドネシア国内の混乱状況を、マニラ(フィリッピン)のイスラム教徒地区とシドニーをロケ地として、6,000人といわれるエキストラを動員して忠実にドキュメンタリータッチで映像化していることでしょう。ただ、当時のインドネシアの複雑に絡み合った政治状況・・・、スカルノ政権とPKI、そしてイスラム教徒勢力の対立構造についての事前の知識なしで映画を観ると理解しにくいのが難点です。その取っ付きにくさをやわらげるかのように、ガイとジルの恋愛模様を前面に出して娯楽性も高めているともいえましょう。ただ、この文章の冒頭にも述べましたように、二人の惹かれあっていく過程の描写には緻密さが欠けているように感じられるのが残念なのです。

最後に、ジル役のシガニー・ウィーバーの女性らしさ、そして美しさがひときわ強く印象づけられたのは、『エイリアン』シリーズでの彼女の男まさりの役を見続けてしまったせいでしょうか。またメル・ギブソンのファンにとっては、ガイを演じる彼の若々しいスリムな容姿を見ることができるのがたまらない魅力となるに違いありません。そして、女優であるリンダ・ハントが男役として、ビリーの特異なキャラクターを好演しているのも見ものです。ちなみにハントは、この作品で1984年のアカデミー助演女優賞を獲得しています

 

●作品データ  『危険な年』(The Year of Living Dangerously, 1982)、製作国:オーストラリア/上映時間:117分(カラー作品)/劇場公開:1984年  [スタッフ] 製作:ジム・マッケルロイ/監督:ピーター・ウィアー/原作:C・J・コッシュ/脚本:ピーター・ウィアー 他/撮影:ラッセル・ボイド/音楽:モーリス・ジャール  [キャスト] ガイ・ハミルトン:メル・ギブソン/ジル・ブライアント:シガニー・ウィーバー/ビリー・クワン:リンダ・ハント/ヘンダーソン大佐:ビル・カー/ピート・カーティス:マイケル・マーフィー/クーマー:ベンボル・ロコ/スカルノ:マイク・エンペリオ  [DVD販売元] ワーナー・ホーム・ビデオ/2002年/2,500円(税込)  [おすすめ度] ★★★☆☆

◆オーストラリアン・シネマ・スペース : 作品データ『危険な年』 ⇒ http://www016.upp.so-net.ne.jp/kangaroo/the_year_of_living_dangerously-data.html


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米国映画『ブラック・スワン』(2010) [米国映画]

約4ヶ月ぶりの劇場での映画鑑賞です。先日、7月3日の日曜日に『ブラック・スワン』(Black Swan, 2010)を隣の街、立川のシネコンで観てきました。4ヶ月前に『愛する人』(2009)を観て、何かを書いてみようと思っていたところに東日本大震災が起こってしまいました。書きかけの筆は止まったままで、作品の印象はうすれていく一方です。幸いなことに、この夏にDVDがリリースされるとのことで、『愛する人』についてはDVDで観直したうえで改めて鑑賞記事を書いてみたいと思っています。

さて『ブラック・スワン』ですが、この作品も印象がうすれないうちに、感じたことだけをまず書き留めておこうと思います。期待していた以上にblack_swan.jpg収穫のあった作品でした。まさにナタリー・ポートマンのためのというか、ポートマンあっての作品ではないかと・・・。いつも斜に構えてものごとを見がちな私なのですが、この作品でポートマンがアカデミー主演女優賞を勝ち得たことは充分に納得のいく結果だと思いました。その他の各映画賞でも高い評価を得ています。

ニューヨーク・シティ・バレエの新シーズンの演目、『白鳥の湖』のプリマとしてニナ(ナタリー・ポートマン)が選ばれる。有頂天になった彼女であったが、芸術監督ルロイ(ヴァンサン・カッセル)の要求は厳しいものであった。彼はニナの白鳥は完璧だと評価しつつも、黒鳥=ブラック・スワンを演ずるには余りにも未熟過ぎるとして、万が一の場合に備えてリリー(ミラ・クニス)を代役として用意していた。リリーは黒鳥を演じさせたら右に出るものはいないほどのバレリーナ。そこからニナの壮絶なプリマへ向けての試練が始まる。清純でピュアな白鳥とは全く正反対の性格を持つ黒鳥・・・悪魔の化身ともいえる邪(よこしま)な心を持ち、官能的なしぐさで欲情をそそり王子を惑わす。そんな黒鳥を、ニナはどのようにしたら演じることができるのかと。絶対にリリーにはプリマの座を譲ることはできないのだから・・・。

ニナは元バレリーナの母親と二人で暮らしています。彼女は次第に母親の過保護、過干渉を疎ましく感じるようになっていきます。なにしろ、何かというとケータイに電話をかけてくる母親なのですから・・・。けれども、ニナ自身もプレッシャーやストレスで無意識のうちに自らの肉体に爪を立ててしまうという自傷行為に悩まされているのです。母親の干渉を疎ましく感じ始めていたニナは、誘われるままにリリーと夜の街にさ迷い出ます。勧められるままにアルコールを飲み、ドラッグをやり、行きずりの男たちと戯れるうちに、彼女の意識下に眠っていたダークな一面が現れてくるのです。

自らがプリマになることで、結果として先輩である元プリマを追い落とすかたちになってしまったことへの優越と劣等の相反する感情。プリマの座を絶対に渡したくないとの思いからのリリーとの凄絶な確執。華やかな舞台の裏で繰り広げられる壮絶なバレリーナどうしの闘いを、カメラはニナの行動や表情を中心に執拗に撮り続け、時にはアップで彼女の苦悩にゆがむ醜い顔をさらけ出します。さらに、痛々しいほどに酷使された足のつま先のアップの映像などから、端正で美しい自身の容貌をかなぐり捨ててカメラの前に立つ、ポートマンの演技にかける凄みが伝わってくるのです。

さらにカメラは、現実と非現実の間でニナの心のなかで起こる出来事を、見事に視覚化して観客の前に提示しています。これは映像表現の映画でしか実現できないことだと思います。彼女の意識の底で交錯し、融合し、混濁していく心の内奥が視覚化されていくのです。その集大成ともいえる圧巻は、CGを効果的に駆使して成し遂げられた黒鳥に変身する場面と、意表を突くラストのシーンでしょう。まさに映像でしか表現できないことだと思うのです。

『白鳥の湖』のストーリーが一本の太い柱になって、プリマの選考過程から本番へ向けての過酷な練習、そして本舞台の初日までが無駄のないプロットで展開していきます。人間の誰の心の奥にも潜んでいる・・・、けれども普段は様々な人間社会の規律によって表面には出てこない暗い世界が、あることをきっかけにして意識の底から顔を出してくる。その過程が、白鳥と黒鳥という相反するキャラクターを演じなくてはならなくなったニナを通して、巧みに描き出されていくのです。『白鳥の湖』というバレー作品が愛され古典となり得たのは、単に華麗で美しい物語というだけではない、人間にとっての根源的で普遍的な問題が内包されているからだと言っていいのかもしれません。

ナタリー・ポートマンの演技力、そして熱演に圧倒され、プロットも無駄なく、しっかりとした構成で、意表を突くラストへ至る描き方も圧巻。充分に満足のできる作品でした。

 

●作品データ  『ブラック・スワン』(Black Swan, 2010)、製作国:アメリカ/上映時間:108分(カラー作品)/劇場公開:2011年(公開中)  [スタッフ] 製作:マイク・メダヴォイ 他/監督:ダーレン・アロノフスキー/原案:アンドレス・ハインツ/脚本:マーク・ヘイマン 他/撮影:マシュー・リバティーク/音楽:クリント・マンセル/振付:バンジャマン・ミルピエ  [キャスト] ニナ・セイヤーズ:ナタリー・ポートマン/トーマス・ルロイ:ヴァンサン・カッセル/リリー:ミラ・クニス/エリカ・セイヤーズ:バーバラ・ハーシー/ベス・マッキンタイア:ウィノナ・ライダー


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豪・NZ・仏合作映画『ピアノ・レッスン』(1993) [豪州映画]

時代は1850年代・・・、スコットランドで一人娘のフローラ(アンナ・パキン)と暮らすエイダ(ホリー・ハンター)は、幼い頃に口がきけなくなってしまっていた。ピアノを弾くことが、彼女にとっては言葉を話すことと同じ役割を果たすようになっていた。父親の勧めもあって、夫を亡くした彼女はニュージーランドに住むスチュアート(サム・ニール)と写真見合いをして再婚する決心をする。そして、娘を連れてニュージーランドまでやってきたのである。

到着した母娘の荷物を取りに来たスチュアートは、険しい山道を大きなピアノを家まで運ぶのは困難だと言って浜辺に置き去りthe_piano.jpgにしてしまう。分身ともいえるピアノをあきらめきれないエイダは、スチュアートの通訳を務めるマオリの男ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)に浜辺に連れてきてもらいピアノを弾き始める。ピアノに向かう彼女に惹きつけられたベインズは、彼女のレッスン付きでピアノを引き取りたいとスチュアートに申し出て、スチュアートは土地と交換にピアノを売ってしまう。

夫の勝手な行動にエイダは怒ったが、ベインズにピアノを教えるために彼の家を娘とともに訪ねるようになる。彼女がベインズの家を訪れるようになってから、彼の関心がエイダ自身にあることがわかる。彼は黒鍵の数だけピアノを弾きに来てくれればピアノを彼女に返すと言っていたのが、鍵盤のキーの数と引き換えに彼女に性的な要求をするようになり関係を結ぶことになってしまう。二人が関係を持った後、ベインズはエイダを淫売にしたくないと言って、鍵盤のキーの数が残っているのにピアノを彼女のもとへ返してしまう。

エイダはベインズのことが忘れられずに夫の留守中に会いに行くのだが、密会の場面をスチュアートに目撃されてしまう。スチュアートは別の日に、彼女がベインズに会いに行くのを待ち伏せて強引に関係を持とうとするが果たせない。そこで彼は、妻がベインズに会いに行けないように家に閉じ込めてしまう。エイダも自らの性的な欲求を持て余して、夫を愛そうとするのだが・・・うまくいかない。

そんなある日、スチュアートは妻に「ベインズに会うか」と聞く。エイダが首を横に振るので、夫は妻を信用して仕事に出かける。ところが彼女は、夫の留守中に鍵盤のキーの一本に自分の想いをしたためて、ベインズのもとへ届けるようにと、気の進まない娘に命じるのである。フローラは母親とベインズの間で疎外感を抱いていた。そこで、そのキーをスチュアートに渡してしまう。妻からベインズへの想いを記したキーを見て、スチュアートは激昂するのであるが・・・。

初めて、私がジェーン・カンピオン監督の作品に触れたのは『スウィーティー』(1989)でした。その後、最近作の『ブライト・スター』(2009)に至るまで観てきましたが、彼女の作品に共通して内在されているテーマは、個性的な女性主人公が男性に対して、あるいは既成概念で凝り固まった社会に対して自らの主張をはっきりと示して、一人の女性として認知され自立していく過程といっていいでしょう。そして、この『ピアノ・レッスン』(The Piano, 1993)が最も完成度の高い作品だと思うのです。

この映画の女性主人公エイダは幼くして口がきけなくなってしまい、ピアノを弾くことが彼女の表現手段になっています。また、彼女の容姿は色白で弱々しく見えますが、気性には激しいところがうかがえます。一見すると、エイダは夫のスチュアートと愛人のベインズという二人の男の間で翻弄されているようでもあるのですが、その実、主導権は彼女が握って二人の男を翻弄しているともいえるのです。

そして、ここではピアノという楽器を二人の男がどのように扱うかが、エイダに対する愛情の尺度として描かれています。エイダは娘を連れて、まだ見ぬ再婚相手のスチュアートが待つニュージーランドにやって来ます。彼らが上陸した浜辺に荷物を取りに来たスチュアートは、大きなピアノを家まで運んでいくのは困難だと判断して、エイダの強い頼みを無視して浜辺に置き去りにしてしまいます。この時から、エイダは夫になるスチュアートに対して不信を抱き、心を閉ざしてしまったといえるでしょう。また、台所のテーブルをピアノ代わりに使っている彼女を見て、スチュアートは理解できずに異常な行動と受け取ります。そしてベインズに引き取られたピアノがエイダのもとに戻ったとき、何か弾いてくれとスチュアートは頼むのですが、彼は妻の分身ともいえるピアノを、その他多くの楽器の一つにしか考えていないのです。

これに対してベインズは、エイダをピアノが置き去りにされた浜辺に連れていくのですが、そこで生き生きとしてピアノを弾く彼女を見て、このピアノが彼女にとってなくてはならぬもの、彼女の一部であることを直感するのです。彼はピアノを彼女と思って自分のところに引き取ります。彼が家のなかで全裸になり、ピアノを拭きながらそっと触れていく場面が象徴的です。まるでエイダをいとおしむかのように・・・。彼女がベインズにピアノを教えるつもりで来たのに、ベインズはただエイダがピアノを弾いているところを見ていたいと言います。ここが映像表現の優れた点であると思うのですが、ピアノを弾く彼女の姿は、まるでピアノと一体化したかのようなのです。余談になりますが、このピアノを弾く場面はエイダを演じたホリー・ハンター自身が実際に弾いているということで、リアルさも増しているのでしょう。

字も読めない粗野な男のベインズは、ピアノといういわば人質をとったかたちで、エイダに対してピアノの鍵盤のキーの数を交換条件に彼女の体を求め、キーの数をすべて消化したらピアノを返すと提案します。普通に考えれば、何とずる賢いやり方と思わずにはいられず、このような方面には何と知恵が働くのかといわざるを得ません。一方、家のなかに十字架を掛けていることからも推察できるように、スチュアートは19世紀ヴィクトリア朝のキリスト教的道徳律のなかで生活している男で、自らの欲望を抑制して、エイダが自分のほうへ振り向いてくれることを忍耐強く待っています。

そして、ベインズはエイダとピアノの関係を理解し、スチュアートはエイダがピアノに執着し過ぎることを異常な行動と受け取っています。また、スチュアートと同じような道徳律のなかで育ってきたであろうエイダは、どんな理由があろうとも、夫を裏切って他の男と寝るという行為は神にそむく罪であることは承知のはずです。そのことを承知のうえで、鍵盤のキーの数と交換に自分を求めてくるベインズの提案に対して、自らの条件をはっきりと出して応ずるというエイダの姿勢は、ベインズという男に対して対等に、いやそれ以上に彼よりも上位に立っているともいえるのですが、彼女のこの行動をどのように理解したらよいのでしょうか。

エイダとベインズが結ばれたあと、ベインズはエイダを淫売にしたくないと言って、鍵盤のキーの数がまだ残っているのにピアノを返すことにします。目的を達したからもうピアノは要らなくなったのかとも考えがちですが、そうともいえないところが男女間の心の機微の複雑なところです。ベインズは悩みます。「エイダは自分の提案に対して拒否することなく受け入れてくれた。交換条件である鍵盤のキーの数はまだ残っていて、このままでいけば、彼女は残りのキーと交換に自分と寝てくれるかもしれない。けれども、自分は彼女を本当に愛しているのだ」・・・と。

エイダのほうも自分を理解してくれているのはベインズだと、早い時期に悟っていたと思われます。それは彼女がベインズの家に最初のピアノのレッスンで訪れたときに、まさか調律までしてくれているとは思っていなかったのが、ちゃんと調律されている。この時から、彼女の心は彼のほうに向けられていったと考えられます。では、なぜピアノという交換条件を使わなければならなかったのでしょうか。鍵盤のキーをお金と見なせば、まさにエイダの行為は淫売にあたるかも知れません。ここで考えなければならないのは、彼女は口がきけないこと、そして彼女の唯一の表現手段がピアノを弾くということの二点なのです。

ベインズは彼女に曲のリクエストなどせずに、自由気ままにピアノを弾かせています。エイダは自分の弾きたい曲を弾いて、ベインズに語りかけていたに違いありません。また、ベインズが鍵盤のキーの数を条件に自分を求めてくる行動を、いわば礼儀正しいと感じていたかもしれません。そうでなければ、体格のがっしりしたベインズは力づくでも彼女を思い通りにできたのですから・・・。エイダが口のきける女性ならば、互いに「愛の言葉」を掛け合って自然に愛し合うことができるようになったでしょう。けれども口のきけない彼女にとっては、淫売に見える鍵盤のキーの数が、愛を確認しあうシンボルのようになっていたのではないでしょうか。

二人が結ばれると、今度はエイダのほうが積極的になっていきます。いわば恐れを知らなくなるのです。ベインズは彼女が忘れられないとはいえ、待ちの姿勢に転じます。ここが、男女の性に対する違いなのかもしれません。そして、エイダの性の衝動の描き方には、カンピオンの女性としての視点が入っているとも思われるのです。

この映画のなかでは人間の持つ複雑な心の奥底が描かれており、何が善で何が悪かということを単純に割り切れないことを示唆しているといえましょう。人間は宗教の戒律、法律など様々な規範によって社会を築き上げてきました。けれども、その規範を取り払って人間社会の最小単位である一人の男と一人の女の関係を考えたときに、既成の概念にとらわれて各々自らの率直な気持ちを吐露できないのは本当に人間的であるのかと問いかけているようにも思えるのです。そして、女性であるエイダがどちらの男に惹かれていくかということを、カンピオン自身の女性の視点から描き出しているといえます。

この映画のなかで描かれる、エイダと娘が上陸したニュージーランドの浜辺は、いかにも地の果てに来たという感じを与えます。19世紀半ば当時、スコットランドから赤道を越えて、この英国植民地までやって来るのには相当な時間と困難があったに違いありません。この景観は、当時の英本国の人々が抱いていた、ニュージーランドに対する心象風景を代弁しているかのようでもあります。

また、浜辺に取り残されたピアノが映し出される場面はブルーの色調で、波は荒く、分身から引き離されたエイダの孤独な寂寥感(せきりょうかん)を象徴的に表しています。この浜辺が一転してオレンジ色に染まり、温かみを帯びる場面があります。それは、エイダが浜辺に戻ってきてピアノを弾く場面です。この映画のなかで唯一といっていいくらいに見せるエイダの笑顔が、彼女の心の様子を表して印象的です。またニュージーランドの深い森が、この森のなかで生活しているエイダ、スチュアート、そしてベインズの心の奥を覗き込むような感じにとらわれるのです。

この作品は、1993年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞しました。また、アカデミー賞をはじめとして世界各国の主要映画賞でも高い評価を得ています。

 

●作品データ  『ピアノ・レッスン』(The Piano, 1993)、製作国:豪・NZ・仏合作/上映時間:121分(カラー作品)/劇場公開:1994年  [スタッフ] 製作:ジャン・チャップマン/監督:ジェーン・カンピオン/脚本:ジェーン・カンピオン/撮影:スチュアート・ドライバラ/音楽:マイケル・ナイマン/美術:アンドリュー・マカルパイン/衣装デザイン:ジャネット・パターソン  [キャスト] エイダ・マクグレイス:ホリー・ハンター/ジョージ・ベインズ:ハーヴェイ・カイテル/アリスデール・スチュアート:サム・ニール/フローラ・マクグレイス:アンナ・パキン/モラーグ伯母:ケリー・ウォーカー/ネシー:ジュヌヴィエーヴ・レモン/牧師:イアン・ミューン  [DVD販売元] 紀伊國屋書店/2005年/3,990円(税込)  [おすすめ度] ★★★★★

◆オーストラリアン・シネマ・スペース : 作品データ『ピアノ・レッスン』 ⇒ http://www016.upp.so-net.ne.jp/kangaroo/the_piano-data.html


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豪州映画『マッドマックス・サンダードーム』(1985) [豪州映画]

この『マッドマックス・サンダードーム』(Mad Max Beyond Thunderdome, 1985)は、「マッドマックス」シリーズの第3作目にあたります。ケネディ=ミラーのコンビで知られるジョージ・ミラーとバイロン・ケネディはメルボルン大学映画制作講習会で出会い、シリーズ1作目(第1部)の『マッドマックス』(1975)で長編映画のデビューを果たしました。その後、ケネディ=ミラー・スタジオを立ち上げて、2作目(第2部)の『マッドマックス 2』(1981)を発表したのです。この第2部が豪州国内はもとより米英でも大ヒットして、3作目(第3部)の本作品へとつながったのです。ただ残念なことに、1983年にケネディが事故で亡くなったために、本作品ではミラーが製作と監督を兼ねることになりました。

では、物語の紹介に移ることにしましょう。マックス(メル・ギブソン)は、その後も豪州の荒野を放浪し続けていた。燃料となmadmax-3.jpgるガソリンはないので、車はラクダに引かせていた。時は第2部から10数年が経過していて、人々は文明なるものを少しずつ取り戻してもいた。そんなある日、パイロット・ジュデダイア(ブルース・スペンス)の操縦する小型飛行機に襲われて、ラクダと車を盗られてしまう。彼がジュデダイアのあとを追っていくと、バーター・タウンという砂漠の真ん中に作られた町にたどり着く。そこはその名のとおり、物々交換で成り立っている町であった。そして、そこで使われていいるエネルギーは、なんと大量に飼われている豚の糞から得られるメタンガスであった。また、この町では女首長のアウンティ(ティナ・ターナー)と、メタンガスを作る燃料工場長のマスター&ブラスターとの権力闘争も起きていた。マックスには交換する物がなかったが、腕っぷしと度胸を買われた。アウンティは彼の体力を見込んで、交換条件に宿敵マスター&ブラスターを倒すことを提案したのだ。

小人で頭のよいマスター(アンジェロ・ロシット)は、大男で力の強さだけがとりえのブラスターの肩に乗って燃料工場を支配していた。マックスとブラスターは、サンダードームという決闘場で対決することになる。そこでは、どちらかが死ぬまで闘い続けなければならない。それが掟であった。二人は死闘を続け、最後にマックスがブラスターにとどめを刺そうとしたとき、仮面の下から現れた素顔は子供のそれだった。彼はブラスターを殺すことができず、サンダードームの掟を破ったという理由で、着の身着のままで砂漠のなかに追放されてしまう。それは、死を宣告するものでもあった。マックスは砂漠の真ん中で意識を失うが、石器人のような生活をしている少年少女たちに見つけられて救われる。彼らは自分たちを伝説のトゥモローランド(核戦争以前のシドニー)へ連れて行ってくれるという、ウォーカー機長を待ち続けていたのだ。彼らは、マックスをウォーカー機長だと思い込んでしまう。少年少女たちは、待ち焦がれたトゥモローランドへたどり着けるのか。そして、マックスの運命は・・・。

まず、この映画を観ての率直な感想は、第1部と第2部からの物語の連続性よりも、各場面で描かれる内容の発想が奇抜で意外性に満ちているのですが、それらがごった煮になっていることなのです。シリーズものは、あとの作品になるほど前作よりも内容が陳腐になっていくのが普通です。けれども「マッドマックス」シリーズは、第2部が第1部に比べて格段にヒットしてしまいました。そこで本作品の第3部は、大変なプレッシャーを負わされることになってしまったと思われます。新味を出して観客を飽きさせまいとする努力は、確かに見てとれるのです。

ロックンロール・シンガーでは大御所のティナ・ターナーを、メル・ギブソンと並ぶ主役級として登場させたこと・・・。また、前二作にはなかったオリジナルソング “We Don't Need Another Hero” と “One of the Living” が挿入されて、彼女に歌わせていること・・・。ちなみに、映画賞には縁のうすかった本作品において、この挿入歌はゴールデン・グローブ賞のBest Original Songにノミネートされたのです。

マスター&ブラスターという、頭脳役の小人と筋肉役の大男の二人で一人前というキャラクターを登場させたこと・・・。そして、大量に飼われた豚の糞からメタンガスを取り出してエネルギーに利用するという発想。また、古代ローマの闘技場をまねたようなサンダードーム・・・。古代ローマのコロッセオに比べれば、鳥かごを大きくしたようなこのドームはちゃちに見えるのですが・・・。さらに、バーター・タウンで権力を握るアウンティとその側近の衣装も古代ローマ人のそれを彷彿とさせるのですが、そこに中近東の砂漠都市や、アジアの雰囲気が渾然一体となっているのです。

ところで、『マッドマックス 2』のなかでジャイロコプターの操縦士として登場したジャイロ・キャプテン役のブルース・スペンスが、本作品でも小型飛行機を操縦するパイロット・ジュデダイアとして登場しています。けれどもこの両者は、空を飛ぶ乗り物を操縦するという共通点を除けば、二つの作品の間で何ら関連性はありません。このスペンスは強烈な個性を持った役者ですので、第2部でのジャイロ・キャプテンの印象が強く残っています。第2部の終わりで、彼は石油精製施設のコミュニティの人たちと北へ脱出したはずです。「マッドマックス」シリーズ・ファンの一人として言わせてもらうなら、ブルース・スペンスを本作品で再び登場させる以上、第2部との連続性を考えて、ジャイロ・キャプテンのその後という設定でマックスと再会させてほしかったのです。

また、この映画には多くの子供たちが登場します。自分たちをトゥモローランド(核戦争以前のシドニー)へ連れて行ってくれると信じているウォーカー機長を待ち続けて、水辺のオアシスのような森のなかでコミュニティを作って暮らしている石器人の姿をした少年少女たち・・・。ミラー監督は、1989年に開かれた日本での「豪州映画祭」当時のインタビューで、「『マッドマックス』シリーズに登場する子供の存在は、人間の再生のリズムを象徴している。死があれば、その後には再生がある。再生が来るという希望を表わすのが子供なのだ」と語っています。確かにそうかもしれませんが、本作品では彼らの登場のさせ方が強引で、やや無理があるような気もするのです。

ただ、子供が多く登場することによって、この映画の背景となっている地球終末の深刻さはやわらげられてはいます。また、緊迫した場面もコミカルな印象を与えることになりました。ラストで、マックスや少年少女たちと行動を共にするようになった小人のマスターを取り戻すために、アウンティと仲間たちが追撃する場面がありますが、激しい追撃戦も子供たちが参加することで笑いを誘ってしまうのです。

この第3部は、プロットやストーリーの展開で無理があったり、破綻をきたすような個所が数多く見受けられる作品ではあります。でも、そのような細かいところに目を向けずに、単に楽しむだけの目的で観れば、これほど面白い映画はないかもしれません。

ところで、冒頭に映し出される空から見下ろした赤茶けた広大な大地は、まさにこの島大陸の内陸部を象徴しているといえましょう。今日(こんにち)、私たちが豪州を訪れるとき、ほとんどの人たちは飛行機を利用してこの国に降り立つことでしょう。もし、飛行機の席が窓側であったら、空港に着陸する前にぜひともこの島大陸を空から観察してほしい。この大陸の原風景が手に取るようにわかるはずですから・・・。

余談になりますが、その後、ミラーは豚が主人公の映画「ベイプ」シリーズを発表してヒットさせています。本作品に登場するエネルギーの源としての豚といい、主人公に豚を登場させるなど、彼はこの動物に何かこだわりや思い入れがあるのだろうか・・・、と考えてしまうのです。

 

●作品データ  『マッドマックス・サンダードーム』(Mad Max Beyond Thunderdome, 1985)、製作国:オーストラリア/上映時間:107分(カラー作品)/劇場公開:1985年  [スタッフ] 製作:ジョージ・ミラー/監督:ジョージ・ミラー 他/脚本:テリー・ヘイズ 他/撮影:ディーン・ゼムラ/音楽:モーリス・ジャール  [キャスト] マックス・ロカタンスキー:メル・ギブソン/アウンティ:ティナ・ターナー/サヴァンナ・ニックス:ヘレン・バデイ/コレクター:フランク・スリング/パイロット・ジュデダイア:ブルース・スペンス/ピッグ・キラー:ロバート・グラブ/マスター:アンジェロ・ロシット/アイアンバー:アングリー・アンダーソン  [DVD販売元] ワーナー・ホーム・ビデオ/2010年/1,500円(税込)  [おすすめ度] ★★☆☆☆

◆オーストラリアン・シネマ・スペース : 作品データ『マッドマックス・サンダードーム』 ⇒ http://www016.upp.so-net.ne.jp/kangaroo/mad_max_beyond_thunderdome-data.html


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豪州映画『マッドマックス 2』(1981) [豪州映画]

自らゴシップネタの中心になって、ハリウッド仲間の多くからそっぽを向かれてしまったメル・ギブソン・・・。日本でも彼の新作が公開されずにファンをやきもきさせていたところに、朗報が飛び込んできました。ほぼ劇場公開をあきらめかけていたEdge of Darkness (2010)が『復讐捜査線』というタイトルで、この夏(7月末)に公開が決まったのです。この英米合作映画は、軍需企業の巨大な陰謀によって、その企業に勤めていた娘の命を奪われたベテラン刑事(メル)が復讐の鬼と化して事件関係者を徹底的に追い詰めていくというハードなクライム・サスペンスです。

今年のカンヌ国際映画祭(5/11~5/22)では、ジョディ・フォスター監督でメル主演の最新作The Beaver (2011)が好評で、この作品の日本公開も視野に入ってきた状況になってきました。俳優としても監督としても、またアイコンプロダクションの出資者としても良質な作品を送り出しているメルですから、自らが播いた種だとしてもスキャンダラスな話題で映画界から消えていってほしくないと思っていたファンの一人としては嬉しいかぎりです。

さて「マッドマックス」シリーズですが、第1作目は以前に本ブログ(2月27日付)で紹介しました。その後、東日本大震災関連の記事を掲載してきたことから、2作目以降の紹介が遅れてしまいました。

豪州映画界の保守的な人たちから異端視されていた『マッドマックス』(1979)でしたが、シリーズ2作目の『マッドマックス madmax-2.jpg2』(Mad Max 2, 1981)が豪州国内はもとより米英でも過去最高の総利益を達成して、国際的にも豪州映画が充分に利益を上げられることを証明したのです。この映画が公開された翌年(1982年)のAFI賞(豪州映画協会賞)ではジョージミラーが監督賞を受賞し、その他にも編集、美術、衣装、音響の各部門で賞を獲得しました。とはいえ、米国で豪州映画の評価が高まり、メルが名実ともに評価されるのは、もう少し後のことなのです。「マッドマックス」では、彼の豪州訛りの英語が米国英語に吹き替えられて公開されたのです。ピーター・ウィアー監督の『誓い』(1981)に主演して、この映画が米国でも大ヒットしたことでメルの評価が名実ともに高まったと言えるのです。

「マッドマックス」シリーズのなかでは最高の出来と評される本作品は、1作目以上にカーチェイスやカークラッシュが派手になり、バイオレンスの度合も格段に増してきています。

第1作目で愛する妻と一人息子を暴走族一味に殺された警官マックス(メル・ギブソン)は、その復讐を果たしたあとも、警察から無断で持ち出したV8の追撃車で荒廃した豪州大陸をさまよい続けていた。時は折しも二つの大国の戦争のあとで、世界の文明は滅びて荒廃の極みにあった。ここ豪州でも石油が不足し、その貴重な燃料をめぐって人々の間で戦いが繰り広げられていた。マックスも、またヒューマンガス(ケル・ニルソン)率いる暴走族の一団も、ガソリンを必要としていることでは同じだった。そんなマックスが、空飛ぶジャイロコプターを操縦するジャイロ・キャプテン(ブルース・スペンス)と出会う。彼はマックスに、内陸部に小さな石油精製所を持つ要塞化したコミュニティがあることを教える。この石油精製所にはヒューマンガスも目をつけていて、襲撃を繰り返していた。

マックスとジャイロ・キャプテンはそのコミュニティへと向かうが、途中でヒューマンガスに襲われたコミュニティの一人を助けて要塞施設のなかへ入る。初めはマックスを疑っていた人たちも、ヒューマンガスらと戦う彼を見て信用するようになる。このコミュニティの人たちは、大型タンクトレーラーで石油を3000キロ余り北の海岸へ運び、新天地を作ろうとしていた。そして、そのトレーラーの運転をマックスに依頼する。けれども、V8にガソリンを満タンにしたマックスはコミュニティから立ち去る。ところが要塞施設を出たあと、ヒューマンガスの一団に襲われてV8を破壊されたうえに、自らも負傷してしまう。ジャイロ・キャプテンに救われてコミュニティに戻ってきたマックスは、今度はトレーラーの運転を自ら志願する。マックスの運転する大型タンクトレーラーがコミュニティを出ると同時に、それを追うヒューマンガス一味との壮絶なカーチェイスと死闘が展開していく。果たして、コミュニティの人たちは新天地を目指すことができるのだろうか。そしてマックスの運命は・・・。

本作品を初めて観たのは、今から17年以上前にテレビで放映されたときでした。「マッドマックス」シリーズのなかでは、この第2作目が最も人気があるらしく、その後も繰り返し放映されていたのでご覧になった方も多いことでしょう。派手なカーチェイス、カークラッシュ、そしてバイオレンスと・・・。これはてっきり米国映画だと思い込んでいたのです。

米国とソビエト連邦(現ロシア)による冷戦体制は崩壊しましたが、核が拡散して、いつ地球が滅亡するか予測できない現状を考えると、30年も前の作品とはいえ、この映画のような世界が生ずる可能性は否定できません。そのうえ異常気象によって、地球上の陸地では各地で砂漠化が広がっています。そのような状況を考えると、内陸部に広大な砂漠と荒地を抱える豪州大陸の風景は、「マッドマックス」シリーズのような映画のロケ地としてはこれに勝るものはないということでしょう。きわめて豪州的でありながら、未来の映画ということを考えれば、豪州に特有なものではなく地球上のどこにでも起こりうる風景ということになります。とすれば、豪州映画という枠にはまらずに最も国際的に通用する作品ということになり、世界中で大ヒットした理由もうなずけるのです。第1作目を紹介したときに、映画に造詣の深い友だちから興味深いコメントを頂きました。「日本での本作品への偏愛度の高さは『北斗の拳』の世界観への共感だろう」・・・と。

とはいえ、豪州の風土に関心を持つ私としては、この映画の豪州的な部分を考えずにはいられません。本作品では空を飛ぶジャイロコプターが登場します。これによって高度のある場所からのカメラワークが多くなり、この島大陸の広大さをよりいっそう実感させてくれるのです。それにしても、地平線までまっすぐに伸びる一本道の両側にはもちろん家らしい家などなく、果てしなく広がる赤茶けた大地のみです。このような風景を見るにつけ、この人口の希薄な空間が、英国をはじめとする各国から移住してきた人たちの心にどのようなインパクトを与え続けてきたのかを考えずにはいられません。

最後の約20分間は、マックスが運転する大型タンクトレーラーと、それを追撃するヒューマンガスの一団との激しいカーチェイスが、赤茶けた大地を分断する一本の道路を舞台にして延々と繰り広げられます。初めて観たときには、その迫力に度肝を抜かれて圧倒されましたが、私の好みからすれば何度も続けて観たくなるというものでもありません。ただ娯楽性という映画の持つ重要な一面を考えれば、大いに評価に値する作品ではあると思うのです。

また、この映画の冒頭と最後のところでナレーションが入ります。このナレーション役は成長した野生児だと推察できます。彼がマックスの思い出を語るという設定になっていると思うのですが、言葉もわからなかった野生児がマックスたちとともに戦い、そしてコミュニティの人たちと北部へ行って北部族の長になるという設定は、世界の終末だけを描かずに再生への希望を観客に持たせようとするジョージ・ミラー監督の考えでもありましょうか。人間を愛し信じようとする心の表れという・・・。

●作品データ  『マッドマックス 2』(Mad Max 2, 1981)、製作国:オーストラリア/上映時間:91分(カラー作品)/劇場公開:1981年  [スタッフ] 製作:バイロン・ケネディ/監督:ジョージ・ミラー/脚本:テリー・ヘイズ 他/撮影:ディーン・ゼムラ/音楽:ブライアン・メイ  [キャスト] マックス・ロカタンスキー:メル・ギブソン/ジャイロ・キャプテン:ブルース・スペンス/パッパガロ:マイケル・プレストン/トーディー:マックス・フィップス/ウェズ:ヴァーノン・ウェルズ/野生児:エイミル・ミンティ/ヒューマンガス:ケル・ニルソン/女戦士:ヴァージニア・ヘイ  [DVD販売元] ワーナー・ホーム・ビデオ/2010年/1,500円(税込)  [おすすめ度] ★★★☆☆

◆オーストラリアン・シネマ・スペース : 作品データ『マッドマックス 2』 ⇒ http://www016.upp.so-net.ne.jp/kangaroo/mad_max_2-data.html


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豪州映画『マッドマックス』(1979) [豪州映画]

監督のジョージミラーと主演のメル・ギブソンの名前を一躍世界的に知らしめた豪州映画『マッドマックス』(Mad Max, 1979)は、その後に続く「マッドマックス」シリーズの第1作目です。

欧米と同等の歴史を持ちながらも停滞状況に陥っていた豪州映画界を活性化させようと、自らも映画好きであったジョン・ゴートン首madmax-1.jpg相の保守系政権(1968-71)のもと、映画産業の再興のためにAFDC(オーストラリア映画開発公社)が設立されました。AFDCからは映画制作のための助成金が支出され、この組織はAFC(オーストラリア映画委員会)に名称を変えて今日に至っています。けれどもAFCの助成対象になる作品は、文学作品の映画化や、自国の歴史的題材を扱った、いわゆる「芸術的な映画」が多かったのです。そのようなわけでミラーは、『マッドマックス』のような映画はAFCの助成対象にはならないだろうとの判断から、独自に集めた資金で映画制作を進めたのです。

1979年のAFI(オーストラリア映画協会)賞で、マイルズ・フランクリンの自伝的小説を映画化した『わが青春の輝き』(1979)が最優秀作品賞をはじめとする主要6部門を受賞したのに対して、『マッドマックス』は興行成績を上げたにもかかわらず3部門(編集賞、作曲音楽賞、音響賞)のみの受賞という結果に終わりました。このことは、『マッドマックス』のような作品が国内の一部映画関係者からは、まだ異端視されていた証拠でもあるといえましょう。

さて、この映画の舞台は近未来のオーストラリア・・・。社会の秩序は崩壊して、ハイウェイでは暴走族が横暴な振る舞いを繰り広げている。マックス(メル・ギブソン)は暴走族を取り締まる警官の一人で、車の運転技術では右に出る者はいないほどの腕前である。特殊仕様のパトカーで暴走族を追撃して、検挙率を高めている優秀な警官である。

ある日、マックスは暴走族の一人ナイトライダー(ヴィンセント・ギル)を追撃して死なせてしまう。ナイトライダーの遺体を引き取りに、トーカッター(ヒュー・キース=バーン)と仲間たちがやって来る。その途上、彼らは一組のカップルを襲い、仲間の一人ジョニー(ティム・バーンズ)は警察に捕まってしまう。けれども、厄介なことには関わりたくない町の人たちの協力が得られずに裁判は開かれずじまい。そのためにジョニーは不起訴になり、それに怒ったマックスの同僚グース(スティーヴ・ビズリー)は釈放された彼を打ちのめす。そのことが原因で、グースはトーカッターの復讐を受けて車ごと焼死させられてしまうのである。

グースの死にショックを受けたマックスは休職して、愛妻と一人息子を連れてドライブ旅行に出かける。平穏な生活が戻ったかに見えたマックス一家であったが、旅先で再びトーカッター一味と遭遇して、愛妻と息子の命が奪われてしまう。マックスは復讐の鬼と化して、片腕、片脚を負傷しながらも、妻と息子を殺したトーカッターたちを追い詰めていくのである。

現在のところ、「マッドマックス」シリーズは『マッドマックス』、『マッドマックス2』(1981)、そして『マッドマックス/サンダードーム』(1985)の第3部までですが、2012年の公開に向けて第4部にあたる Mad Max: Fury Road が制作途上にあるとのことです。

私がこのシリーズを初めて観たのは第2部の『マッドマックス2』で、16年ほど前にテレビ放映されたときのことでした。第2部がもっとも人気があるとのことで、テレビでも繰り返して放映されていたのです。それに比べて、本作品の『マッドマックス』はテレビ放映されたことがなかったと思います。ただし、ここでの放映は地上波だけで、衛星やケーブルの映画専門チャンネルは含まれていません。

ということで、私は第1部の本作品をDVDで観ることになったのです。なぜ観る気持ちになったかというと、第2部の冒頭で負傷したマックスが現れて、それまでのいきさつが簡単に紹介されるのですが、ストーリーの展開にいま一つ判然としないところがあったことと、そのマックスの姿から感じとった孤独と寂寥(せきりょう)が強く脳裏に残っていたからです。それまでに彼はどのような生活を送ってきたのであろうか・・・と。

本作品では、マックスが家族に囲まれて幸せだったときの様子と、愛妻と息子に悲劇が襲いかかり、彼が一匹狼のアウトローになった原因が語られています。普通は第1部を観たあとに第2部というのが順当といえるのですが、逆に観るのも悪くはないとも思いました。例えば「スター・ウォーズ」シリーズでは、初めはダース・ベイダーが悪の権化のように描かれています。けれどもシリーズを追うごとに、ダース・ベイダーの子供時代から恋をする青年時代へと、彼が生きてきた過程がさかのぼって描かれていき、物語の全貌が現れたときに、そういうことだったのかと納得させられる仕組みになるからです。

さて「マッドマックス」シリーズですが、初めて第2部を観たときに、派手なカーチェイス、カークラッシュ、そしてバイオレンスと・・・、これはてっきり米国映画だと思い込み、かなり長い間そう思ってきたのです。本作品を観たときには豪州映画だと知っていたのですが、それでも初めて観ていれば米国映画と思ったにちがいありません。

まず感じるのは、この映画は米国の西部劇の近未来版にも見えるのです。悪党一味と保安官が荒野の町で対決するというのが西部劇の常套ですが、ここでは馬ならぬバイクを連ねたトーカッター一味が近未来の保安官マックスたちと対決します。大地も広大で、米国の荒野を彷彿とさせます。けれども、その風景をよく見てみると周囲には山らしい山はほとんどなく、まったくといっていいほど平坦なのです。車の走る速度を際立たせるために、カメラをローアングルにして地面スレスレのところから撮られることが多いので道路の状況がよくわかるのですが、アップダウンが非常に少ない。まさに平坦な地形なのです。これは、米国とは異なる豪州のアウトバックと呼ばれる内陸部の風景なのです。

そのアウトバックに対して、マックスが愛妻と息子の3人で暮らす家は海のそばにあり、また、マックス一家が休暇のときに身を寄せるメイという女性の家の近くにも海があります。このことは、豪州が米国とほぼ同じ広さでありながら、その内陸部の広大な地域は人を寄せ付けない砂漠やブッシュ(低木林地帯)が広がり、人々が豊かに暮らせる場所は猫の額ほどの海岸線沿いの限られた土地であるという、この国の風土を象徴しているといえるのです。

ところで、同僚グースがトーカッター一味の復讐で殺されたショックから、マックスは上司に辞表を提出するのですが、そのときに彼は「怖いんだ。走ることが楽しくなってきている。これ以上走り続けたら暴走族と同じになる。(警官の)バッジをはずしたら、(ナイトライダーやトーカッターのような)奴らと変わらない」とつぶやきます。この彼の言葉は、警官の鏡のように法を遵守しながら生きてきたマックスが、愛する家族を殺されて手段を選ばぬ復讐の鬼へと化していく姿や、第2部から第3部へと続いていくシリーズでの彼の姿を目にするときの重要な伏線になっていると思うのです。この作品は、単なるバイオレンス映画では終わらないのではないだろうか・・・と。

最後に、私の好みをいえば、近未来といってもリアル感と物語性のあるシリーズ1作目の本作品になるでしょうか。なおこの後、『マッドマックス2』と『マッドマックス/サンダードーム』も順を追って紹介していく予定です。

 

●作品データ  『マッドマックス』(Mad Max, 1979)、製作国:オーストラリア/上映時間:93分(カラー作品)/劇場公開:1979年  [スタッフ] 製作:バイロン・ケネディ/監督:ジョージ・ミラー/原案:ジョージ・ミラー 他/脚本:ジェームズ・マコーズランド 他/撮影:デヴィッド・エグビー/音楽:ブライアン・メイ  [キャスト] マックス・ロカタンスキー:メル・ギブソン/ジェシー・ロカタンスキー:ジョアン・サミュエル/フィフィ・マカフィー:ロジャー:ワード/ジム・グース:スティーヴ・ビズリー/ジョニー:ティム・バーンズ/トーカッター:ヒュー・キース=バーン/ナイトライダー:ヴィンセント・ギル  [DVD販売元] ワーナー・ホーム・ビデオ/2010年/1,500円(税込)  [おすすめ度] ★★★★☆

◆オーストラリアン・シネマ・スペース : 作品データ『マッドマックス』 ⇒ http://www016.upp.so-net.ne.jp/kangaroo/mad_max-data.html

 


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米伊合作映画『みんな元気』(2009) [米国映画]

海外への飛行機の機内映画サービスで観た知り合いが、おすすめの映画だと教えてくれたのが、この米伊合作『みんな元気』(Everybody's Fine, 2009)です。いつ劇場公開されるのかと心待ちにしていたのですが、劇場未公開でDVDのみ発売ということになってしまいました。

妻に先立たれ、長年勤めた会社をリタイアした男が、独立して疎遠になっている子供たちのもとを訪ね歩き、家族としての絆の修復を図ろうとする物語です。everybody_fine.jpg突然に訪ねてこられた父親に、子供たちは困惑したり、あわてたりします。そう・・・、彼らはそれぞれ、父親には打ち明けられない秘密を抱えていたのです。子供たちにしてみれば、親に心配させたくないという配慮から要らぬ見栄を張って、ちょっとした嘘をついてしまう。そんな子供たちが見せたくない生活の部分を、実際に会うことによって父親も気づき始める。でも彼も、気づいたとしても強く切り出せない。というのも、働いていた時には子供たちのことは妻まかせで、子供たちには自分の価値観を押しつけ過ぎてきたことを自覚し始めていたから・・・。

父親のフランクにはロバート・デ・ニーロが、妻に先立たれて子供たちとも離れて暮らす独り身の寂しさを、渋さのなかにも哀歓を漂わせて、ちょっぴりコミカルに演じています。個人的には、オープニングに流れる「♪Catch A Falling Star」の曲に合わせて映し出される、フランクの日常の一端が気に入ってしまいました。この後で展開される物語の雰囲気を暗示しているかのようで・・・。

♪Catch A Falling Star (歌: ペリー・コモ) ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=U08iKG4tfFE (YouTube)

フランクには息子と娘が2人ずついます。子供たちは独立して、米国各地で生活をしているのですが、その子供たちを訪ね歩く順番に紹介すると・・・。

画家志望のデイヴィッド(オースティン・リジー)は、ニューヨークのアパートに住んでいます。でも留守のようで、帰宅するのを一晩待ってみたのですが会えずじまいになります。このデイヴィッドの行方が、家族の間で大きな事件になるのですが・・・。

シカゴのエイミー(ケイト・ベッキンセイル)は、結婚して広告業界の重要な地位で働いています。仕事は順調のようですが、息子(フランクの孫にあたる)のジャックと父親との関係に妙なよそよそしさを感じるのです。

指揮者として各地へ演奏旅行に出かけているとばかり思っていた、デンバーに住むロバート(サム・ロックウェル)は(フランクの表現では)ドラムを叩いていたのです。ロバートは「ドラムではないよ、パーカッションなんだ。パーカッショニストとして誇りを持っているよ」と、父親に話すのですが・・・。

ラスベガスでダンサーをして脚光を浴びつつあるというロージー(ドリュー・バリモア)は、超高級車で父親を迎えに来て、自宅だという家賃の高そうなマンションに案内します。けれども、そこにかかってきた電話の声が漏れ聞こえ、「少しの間、赤ん坊を預かって」と頼みに来た女友だちだという人物にも遭遇して、娘の生活ぶりに何か違和感を覚えるのです。

この映画はジュゼッペ・トルナトーレ監督のイタリア映画、『みんな元気』(Stanno tutti bene, 1990)のリメークだということです。オリジナルでは父親をマルチェロ・マストロヤンニが演じて、作品の評価も高かったようです。オリジナルを私は観ていないので比較はできないのですが、舞台を米国に移してのリメーク作品もなかなかの出来栄えだと思います。日本では未公開に終わってしまいましたが、団塊世代の人たちの共感も得られる作品ではないかと思うのです。

また、フランクが旅行で利用する交通手段がバスや鉄道というのも興味あるところです。国内の遠距離旅行では飛行機が一般的といわれる米国で、これらの交通手段を採り入れたのは、フランクが従事してきた仕事がもたらした持病という設定からです。彼は電話ケーブルの製造会社に長年勤めていて、ケーブル製造に使う塗料の成分を吸引していたことから肺疾患を抱えていました。そこで、主治医は長期旅行や飛行機の利用を控えるように忠告していたのです。それでも彼が、医者の忠告を無視してまでも子供たちのもとを訪ね歩こうとした理由とは・・・。

フランクのたっての希望は、年に数回でも家族が集まって食事や団らんの場を設けることでした。そこで、彼は子供たちと連絡を取り合って集まる日時を決めて、家族パーティの料理の準備に励むことになります。けれどもいつも、直前になって子供たちから何かと理由をつけたキャンセルの電話がかかってくるのです。そこで、子供たちが来られないのであれば自分のほうから訪問しようと決心したのです。バスや列車を乗り継ぐ旅行が映し出されることで、広大なアメリカ大陸のなかで家族の一人ひとりが、いかに遠い場所で離ればなれに暮らしているかが実感できるのです。その広さはまた、フランクが各地で時刻の調整を忘れてバスに乗り遅れるという場面でもわかります。米国では東海岸、太平洋沿岸、中西部などの地域で標準時が決められていて、それぞれ1時間近くの誤差が生じるのです。ですから、その地域ごとに時計の時刻を修正しなければならないのです。

フランクが仕事で関わり続けてきた電話ケーブルの役割も重要で、効果的に使われています。彼が旅行をしていくのと並行して、電信柱とケーブルが映し出され、そこから子供たちのひそひそ声が聞こえてくるのです。その声は子供たちどうしが電話で連絡を取り合っているもので、もちろんその内容は父親の知らないところで交わされている会話なのです。フランクが家庭を支え、子供を育て上げるために従事してきた電話ケーブルを作るという仕事・・・、そのケーブルがいつの間にか、父親と子供たちをつなぐ重要な役割を担っていることに、観客たちも少しずつ気づいていくことになるのです。

最後に、私自身がもっとも印象に残った場面を挙げておきましょう。デイヴィッドの作品が展示してあるニューヨークの画廊に、息子の作品を求めに父親のフランクが訪ねるのですが、売れてしまったあとでした。でも、倉庫にある別の作品を見せてもらうことになります。画廊のスタッフは「流行にとらわれない独特の作風です」と言って、その絵を父親に見せます。キャンバスに描かれていた絵を見た瞬間・・・、私たち観客も、それまでに目にしてきた場面を思い起こしながら、フランクと同じ感情を抱くことになり、胸に込み上げてくるものを感じるのです。その絵のなかには、父親と子供たちをつなぐ‘あの重要なもの’が描かれていたのです。

大作でもなく、奇をてらった演出もなく、ごく普通のありふれた家族の関係に幾つかのアクシデントが挿入されながら描き出されていく映画です。また、その家族の姿は、米国を舞台に今日ふうにオリジナルがアレンジされて、今の私たちが観ても共感し、考えさせられる場面が多々あるのです。地味ですが、味わいのある佳品であると思います。言い添えますと、エンディングのテーマ曲「♪(I Want To) Come Home」はポール・マッカートニーが担当しています。

 

●作品データ  『みんな元気』(Everybody's Fine, 2009)、製作国:米伊合作/上映時間:100分(カラー作品)/劇場公開:未公開  [スタッフ] 製作:ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ 他/監督:カーク・ジョーンズ/脚本:カーク・ジョーンズ/撮影:ヘンリー・ブラハム/音楽:ダリオ・マリアネッリ  [キャスト] フランク:ロバート・デ・ニーロ/ロージー:ドリュー・バリモア/エイミー:ケイト・ベッキンセイル/ロバート:サム・ロックウェル/ジャック:ルシアン・メイゼル  [DVD販売元] ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント/2011年/1,500円(税込)  [おすすめ度] ★★★★☆


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豪州映画『少年の瞳』(1983) [豪州映画]

舞台は1930年代のシドニー ・・・。PS(ニコラス・グレッドヒル)と呼ばれている少年の母親シンデンには、豪州の労働者階級で生活するライラ(ロビン・ネヴィン)と、英国に渡って裕福な生活を築き上げたヴァネッサ(ウェンディ・ヒューズ)の二人の姉妹がいた。なぜ、この少年がPSと呼ばれているかというと、シンデンが赤ん坊のことを「自分のバカげた人生の『追伸(PS)』にすぎない」と言っていたからだった。彼女はPSを産んだ直後に亡くなり、父親のローガン(ジョン・ハーグリーヴズ)も妻を失った悲しみから、PSをライラ夫婦に預けたまま北部の金鉱に行ってしまった。PSはライラ夫婦のもとで我が子のように育てられてきたが、小学校への入学を間近に控えたある日、ヴァネッサが自分にもPSの親権があると主張して英国から帰国する。PSは自らの気持ちは無視されて、二人の叔母ライラとヴァネッサの家に交互に住む取り決めがされてしまう。

実は、ヴァネッサはローガンを愛していたのだが、彼のほうはそれとは気づかずに姉のシンデンと結婚してしまったのだった。careful_he_might_hear_you.jpgヴァネッサは心の痛手を癒すために英国に渡ったのだった。彼女はPSのなかに未だに思い切れないローガンの面影を重ねて、彼を引き取って英国で一緒に暮らそうとしていた。彼女はPSを一流の英国紳士に育て上げるために、上流階級の子弟が通う私立学校に入学させ、放課後にはピアノ乗馬ダンスを習わせ、言葉づかいから食卓でのスプーンフォーク使い方まで事細かに躾けるのだった。ヴァネッサがそのような生活をよかれと思って押し付けるほどに、PSのほうはライラ夫婦との気楽な庶民的生活に戻ることを切望する。

そんなある日、ローガンが突然PSの前に現れる。父親らしいことは何もしてこなかった彼だったが、PSがヴァネッサとの生活に委縮してしまっているのを見て、「いやなことはいやだと、はっきり抗議することだ」と息子に言う。ヴァネッサはローガンに親権を自分に渡すように要求する。けれども彼はPSの委縮してしまっている姿から、彼女に親権を渡すことを拒否する。ローガンがPSの親権をライラとヴァネッサのどちらに渡すかをはっきりさせないままに再び去ってしまったために、ヴァネッサは裁判所にPSの親権が自分にあることを申し出る。

折から、1920年代の末から世界中に広がった大恐慌のあおりで、ライラの夫ジョージ(ピーター・ウィットフォード)も職を失っていた。裁判所の判断はヴァネッサ側の有利に運んで、PSはヴァネッサのもとで暮らすことになる。けれども、PSはことごとくに反抗するようになって、ヴァネッサを精神的に追いつめていく。ついに彼女は、PSをライラ夫婦のもとに戻して、自分は英国に帰る決心をする。ヴァネッサは別れ際にPSに、「自分が誰かを知るのよ。人が愛せるようになるわ」と言って去る。けれども、彼女は海難事故にあって亡くなってしまう。PSはライラ夫婦のもとに戻ることになるが、周囲の大人たちに「自分は誰、自分の本当の名前は?」と聞くのである。

Careful, He Might Hear You : Movie Trailer (YouTube) ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=90ObIoZDnyE

豪州映画『少年の瞳』(Careful, He Might Hear You, 1983) ・・・、この映画は1988年の「オーストラリアン・シネマ・ウィーク」で上映されているのですが、劇場では未公開です。また、ビデオについてはVHSテープが発売されているものの廃盤で、入手が困難な状況です。このビデオも、これまでに本ブログに記してきました《SHIBUYA TSUTAYA》(東京・渋谷区)で見つけて、レンタルすることができたのです。

この映画を監督したカール・シュルツは米国に渡って『第七の予言』(1988)を撮り、その後はジョージ・ルーカス製作のTV用映画「若き日のインディ・ジョーンズ」シリーズの監督を務めてきています。米国に渡った多くの豪州出身の監督と同様に、シュルツも米国では娯楽性の高い作品に関わっていますが、『少年の瞳』は(文学的)芸術性と娯楽性がほどよく融合した質の高い作品に仕上がっています。AFI賞(豪州映画協会賞)でも、最優秀作品賞をはじめとする8部門を獲得して高い評価を受けています。

ところで、この作品は豪州出身の作家サムナー・ロック・エリオット(1917-91)の自伝的小説、Careful, He Might Hear You (『気をつけて、あの子に聞かれるかも』、1963)を映画化したものです。彼は豪州で劇作家として活躍した後に、1955年に米国に移住してTVドラマの作家として活動を続けました。この小説には発表された直後から映画人の注目が集まり、ハリウッドではエリザベス・テイラーとヴィヴィアン・リーの主演で映画化の準備に入ったのです。けれども、この企画は延期されたまま実現されることはありませんでした。一方、この映画の製作担当となるジル・ロブは原作者のエリオットと話を進め、「この作品はオーストラリア人の手で映画化するべきだ」との同意を得ることができたのです。そこで、ロブは多額の譲渡料を払って映画化権を買い取ることになったのです。

この『少年の瞳』は、幼い子供の瞳を通して大人たちの身勝手なエゴ、愛憎、欲望を鋭く描き出しています。そして、親子の絆、家族、男女の愛という問題を考えたときには、いつの時代のどこにでも起こりうる普遍的な題材を扱った映画でもあります。けれども、この映画の時代背景と場所を考えながら観るならば、豪州という国の姿をよりよく知ることもできるのです。

背景となっている時代は1930年代で、シドニーが舞台です。1920年代の末から始まった世界大恐慌は、豪州にも押し寄せていました。そして、英国との絆がまだ強い時代でもありました。豪州といえば、国民性の特質にメイトシップをあげることが多いのですが、その一方で階級社会が根強く残っていたことも事実なのです。言い替えれば、階級社会があったからこそ、上流階級や権力に対抗する意識がメイトシップというかたちで一般民衆の間に浸透していったと言えるでしょう。平等主義を表すメイトシップとは、古くは官憲に対する流刑囚たちの団結、そして大陸の奥地(ブッシュ)で生活をしていた男たちの大農場主たちに対する結束を表す精神でした。一方、上流階級の人々は伝統的に絆の強い英国を手本として、例えば子弟を渡英させて高等教育を受けさせるのがよいことだとされていました。そこで兄弟姉妹であっても、この映画のライラとヴァネッサのように、英国に渡って裕福な生活を手に入れて戻ってきたヴァネッサに対するライラの抵抗や反発も少なからずあったのです。さらに、ヴァネッサのような高慢で自我の強い性格を持っていれば、なおさら彼女への反発は大きくなったことでしょう。

周囲に広い庭のある二階建ての石造りのヴァネッサの屋敷と、ライラ夫婦が住んでいる小さな家が密集している住宅地域・・・。そして家のなかの調度品や家具の違い・・・。この映画のなかでは、上流階級と庶民階級の暮らしの違いが興味深く描かれています。そしてシュルツ監督の心は、庶民階級の暮らしぶりのほうに、より暖かく向けられているように思われるのです。ライラ夫婦が住んでいる住宅地域を映し出す色調は明るく健康的で、ヴァネッサの屋敷は何となく暗く陰鬱に感じられるのです。

ところで、この作品のテーマなのですが、ちゃんとした名前をつけてもらえずに6歳まで育ってきたPSと呼ばれる少年が、ヴァネッサという高慢で自我の強い、それまで彼自身の周囲にいなかったような大人と出会うことで、幼いながらも自らを見つめ直して自己を確立していく過程だといってよいでしょう。そして自立していくPSの瞳を通して、大人たちの身勝手なエゴ、男女の愛憎が描き出されていくのです。カメラの目線が少年の目の高さに設定されている場面が多いことも、大人の観客が少年の心のなかに入って自らの心を見つめ直しやすい状況を作っていると思います。

少年PSは、生まれながらにして両親から歓迎される存在ではなかったようです。お産の苦しみから亡くなった母親のシンデンは、産んだ赤ん坊を自分のバカげた人生の「追伸(PS)」にすぎないと言い、周囲の姉妹や知人など誰彼かまわずに養育を任せるようなメッセージを残していました。父親のローガンといえば頭はよくて容貌もよかったのですが、地道に働くことは苦手らしく、妻を失ったショックとはいえ、子供を放り出して北部の金鉱へ一獲千金を夢見て行ったきりになってしまうのです。

シンデンからPSの親権を任された書類を持っていると主張するヴァネッサも、愛するローガンをシンデンにとられた悲しみから、心の痛手を癒すために英国に渡ってしまったのです。そこで、豪州に残された姉妹の一人ライラがPSの面倒をみざるを得なくなってしまいます。こうして、ライラとジョージの夫婦は我が子のように慈しみ6年の間育ててきたのです。ただPSの両親については、母親の死についても父親の失踪の件についても、彼の心を傷つけまいとする配慮からオブラートに包むようにして、はっきりさせないできたのでした。そして、彼自身の名前のことについても・・・。

そんなときに、英国に渡って裕福になったヴァネッサが、お金持ちで彼女の後見人のエティ(コリーン・クリフォード)と一緒に帰国して、ライラにPSを引き取りたいと申し出ます。ヴァネッサは今も思いを抱いているローガンの面影を残すPSを愛の対象として、ローガンの代わりに自分の手元に置きたかったのでしょう。子供であれば、自分の思い通りにできると考えたのかもしれません。PSは大人たちの都合で、ライラの住み慣れた家とヴァネッサの屋敷を行き来するようになります。けれどもPSは、屋敷の生活のすべてに馴染むことができません。ライラの家の付近の空き地で子供たちとクリケットに熱中するPSの姿と、ヴァネッサの屋敷のなかで気乗りのしない様子でピアノに向かう姿・・・、この明と暗の対比は鮮やかです。また、黒塗りの車がPSを迎えにライラの家にやってくるときに見せる、彼の曇っていく目の表情が印象的です。

ヴァネッサに対するPSの意思表示がはっきりしていくのが、父親のローガンに会ってからのことです。PSはヴァネッサの思い通りにはならないこと、英国には行かないことを宣言し、バスルームの備品を手当たり次第に投げつけるのです。そして、裁判所でヴァネッサ側に親権が渡された後のPSの反抗の仕方は、単なる反抗以上の陰湿さを帯びてきます。ヴァネッサの心の最も触れてほしくない個所にじりじりと入っていき、彼女を苦しめていくのです。ヴァネッサに対してプレゼントのお礼を言うときの慇懃無礼な言い方、食事の後にエティにはキスを進んでするがヴァネッサに対しては振り向きもしない、そして誕生パーティの打ち合わせをしようとするヴァネッサに気のないそぶりをして通すのです。

さらに決定的なのが、誕生パーティにやって来た友だちにヴァネッサとの二人だけの秘密をばらしてしまう場面です。そのときのヴァネッサを見つめるPSの目の表情は言葉を超えたものを持っています。空恐ろしさも感じるほどなのです。その二人の秘密とは、雷の嫌いなヴァネッサがPSを抱きかかえて部屋の隅に逃げ込んだときのこと・・・。彼女はPSを抱きしめたまま、ローガンに愛撫を迫るような言葉を、思わずPSの耳元でささやいてしまっていたのです。このヴァネッサとPSとの対峙は、大人と子供というよりも大人どうしの対決といってもいいほどなのです。それは、子供だと思っていても彼らには、大人には想像できないほどの理解力が備わっていることを教えてくれるのです。けれどもその一方で、ライラに口止めされていたジョージの失業のことをヴァネッサに詰問されて話してしまうことや、親権を決める判事に対して「ヴァネッサのところへ戻りたくないと言ったのは自分で決めたことだといいなさい、とライラからいわれた」と言ってしまう幼さ・・・。この、子供の持つ心のギャップも巧みに描かれています。

ライラ夫婦はPSに対して両親のことをはっきりとは話さずに、PSと呼ばれる理由も話してきませんでした。彼の心を傷つけたくないとの配慮からだったのですが・・・。それとは対照的にヴァネッサは、PSに対して母親が死んでしまっていることをはっきりと告げるのです。また、屋敷のなかで父親のローガンとも引き合わせます。結果的には、父親と会わせたことがヴァネッサにとってはマイナスになってしまうのですが・・・。さらに、「自分が誰であるかを知るのだ」とPSに忠告します。PSはヴァネッサと過ごしたことで、激しく反発しながらも幼いなりに自己というものが主張できるようになったのです。自分は物ではなく、ちゃんと名前のついた一人の人間であることを・・・。

また、反抗しながらも、ヴァネッサに惹かれていた面も見られます。彼女が亡くなって、引き払われる前の屋敷にPSが訪ねたとき、ライラの友だちのヴィア(ジェラルディーン・ターナー)がヴァネッサの姿を真似して現れます。一瞬、PSの目は懐かしい表情になるのですが、ヴィアがおどけた姿で帽子をかぶると、「ヴァネッサはそんなかぶり方はしない」と言うのです。自分の思い出を壊さないでくれといわんばかりに・・・。

* 『少年の瞳』のサウンドトラック: レイ・クックによる作曲 (YouTube) ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=L2ku4wR2QCs

ヴァネッサ役のウェンディ・ヒューズは豪州映画界を代表する女優ですが、上流階級のいかにもお高くとまったというような高慢な姿と、その裏で見せる心の弱さを絶妙に演じ、ライラ夫婦の裏表のない人の好さと好対照をなしています。また、PS役のニコラス・グレッドヒルの目の表情は「目は口ほどにものを言う」といいますが、場面ごとに様々な意思表示を発していて、まさにこの映画の邦題『少年の瞳』がぴったりだといえるのです。

ともすれば、子供は保護しているのだから大人の占有物だと考えがちです。けれども子供はずっと利口で、大人のしていることを裏まで見通していることも多いのです。この映画は、子供の目から見ると大人の行動がどのように映るのかを改めて教えてくれます。そして、改めて子供と接するとき、大人たちはどのように対処すればよいかというヒントも与えてくれているのです。観る人が置かれている環境の違いによって様々な見方が可能で、観るほどに考えさせられ味わいの出てくる作品だといえるでしょう。

 

●作品データ  『少年の瞳』(Careful, He Might Hear You, 1983)、製作国:オーストラリア/上映時間:110分(カラー作品)/劇場公開:未公開(映画祭で上映)  [スタッフ] 製作:ジル・ロブ/監督:カール・シュルツ/原作:サムナー・ロック・エリオット/脚本:マイケル・ジェンキンズ/撮影:ジョン・シール/音楽:レイ・クック/衣装デザイン:ブルース・フィンリソン  [キャスト] ヴァネッサ:ウェンディ・ヒューズ/PS:ニコラス・グレッドヒル/ライラ:ロビン・ネヴィン/ローガン:ジョン・ハーグリーヴズ/ジョージ:ピーター・ウィットフォード/エティ:コリーン・クリフォード/ヴィア:ジェラルディーン・ターナー  [ビデオ] VHSテープで発売されているが、廃盤で入手困難

◆オーストラリアン・シネマ・スペース : 作品データ『少年の瞳』 ⇒ http://www016.upp.so-net.ne.jp/kangaroo/careful_he_might_hear_you-data.html

 


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豪州映画『エイミー』(1998) [豪州映画]

タニア(レイチェル・グリフィス)は9歳になる一人娘のエイミー(アラーナ・ディ・ローマ)と、メルボルン郊外の広い平原地帯に建つ一軒家に住んでいる。その家には、亡き夫のウィル(ニック・バーカー)との思い出が詰まっていた。ウィルは人気ロック歌手であったが、ライブ会場のステージ上で感電死をしてしまったのだ。エイミーもステージの袖でパパの歌う姿を見ていた。彼女がウィルのところに駆け寄っていこうとした、まさにその時・・・、パパの死を目の当たりにしてしまったのだ。そのショックで、彼女は口もきけず耳も聞こえなくなってしまった。エイミーはパパの死が自分の責任だと思い込んでいたのである。その時、自分がパパのところに駆け寄らなければ事故は起こらなかったのだと・・・。
  
そんな娘の症状を治すべく、タニアはできる限りの努力を続けていた。けれども福祉局の役人は、彼女の苦労や悩みを深く理解しようとしなかった。amy_a.jpg学校にも通っていないエイミーの生活保護と教育は国に任せるべきだと、執拗に型通りの説得を彼女に続けていた。独善的な役人の態度にうんざりした彼女は、娘を連れてメルボルンに引っ越す決意をするのである。
 
母と娘は、労働者階級が住む下町地区に借家を見つけて暮らし始める。近所には売れないミュージシャンのロバート(ベン・メンデルソーン)が住んでいて、暇さえあれば歌を歌っている。そんな彼にエイミーは興味を示し、ロバートのほうも彼女が歌や音楽には反応することに気づく。タニアが出かけていた、ある日のこと・・・、留守番をしているエイミーにロバートが歌いかけてみると、彼女も彼の歌に合わせて歌い始める。二人は歌で会話を交わし、近くの公園に一緒に遊びに行くほどに仲良しになる。
 
そのことを知らずに帰宅したタニアは、娘がいないので誘拐されたと思い込んでしまう。その大騒ぎの一件で、タニアとロバートの間には気まずい空気が流れることになる。けれども、彼女は娘がラジオの音楽に合わせて歌を歌っている光景を目にする。そこで、エイミーが普通の会話はできなくても、歌や音楽には反応を示すことに気づくのである。ウィルの事故死以来、彼女は娘の声を聞くことができたのである。ロバートの言葉が嘘でないことがわかり、彼への疑いも晴れて、タニアとロバートは親しさを増していく。
 
音楽や歌には反応して自らの声を出し始めたエイミーに、タニアは一筋の希望の光を見出す。以前にも増して、何人もの専門家に娘の相談を求めるようになる。そのなかの一人・・・、精神科医のアーカートがタニアの有力な相談相手になる。そして、彼はエイミーの症状のよき理解者ともなって、彼女の心の底にあるトラウマの謎を解明していくことになる。
 
ある夜、いつものように隣家の主婦にエイミーを預けて、タニアは仕事に出かける。帰宅してみると、その主婦は酔った夫に暴力を振るわれ、エイミーは怖さのあまり外に飛び出してしまっていた。行方知れずになったエイミーを隣近所の人たちが総出で探しまわり、夜の街をさ迷い歩いている彼女を発見する。けれども、母と娘の居場所を突き止めた福祉局の役人が、一瞬のすきをついてエイミーを孤児施設に強制的に収容してしまう。
 
施設に収容されたエイミーは、その場所にいたたまれずに自力で抜け出して、再び街のなかへさ迷い出てしまう。タニアとロバート、そしてアーカート医師らは彼女の行きそうな場所を探し求めて歩きまわる。そして、公園で行なわれている野外ライブの音を耳にする。以前にウィルが歌っていた時と同じようなライブ会場に、もしかするとエイミーもいるのではないかと希望を託しながら、彼らは足を速めるのである。
 
ナディア・タス監督の長編6作目となる『エイミー』(Amy, 1998)は、豪州国内はもとより欧州やアジアの映画祭でも高い評価を得ています。そして日本でも話題になって、1999年10月に東京では《シネスイッチ銀座》にて劇場公開されました。また、同年9月に開催された「あいち国際女性映画祭」には、タス監督がゲストとして来日しているのです。彼女のデビュー作『マルコム』(1986)は劇場未公開で、ビデオは発売されていますが廃盤になっていて、多くの人たちが鑑賞することができません。でも『エイミー』はDVDが今でも販売されていて、ビデオ屋さんでレンタルも容易にできる作品です。ぜひ、実際にタス監督の作品を味わっていただきたいと思います。
  
タス監督の作品を、私は『マルコム』と『エイミー』の二つしか観ていません。それでも推測できる作品の魅力は、社会的に弱い立場の人間に対する温かい眼差しと、物語の背景となるメルボルン、それも下町地区に対する愛情豊かな描き方であると思うのです。彼女が描き出すのは、『マルコム』のなかのマルコムや‘こそ泥’のベーカー・・・、そして『エイミー』のなかのエイミーとタニアを中心にした隣人たちに見られる、何かしら心に痛みや悩みを抱えている普通とは少し違った、いわば社会的に適応しにくい性格の持ち主なのです。そのような人たちを、タス監督は偏見のない眼差しで温かく描き出しているのです。
  
その一方で、権力の側に立ち社会的弱者を見下すような人たちを、冷めた目線で笑いのネタとして、風刺の対象として描き出しています。『エイミー』のなかでは、権力の象徴のような福祉局の役人が筆頭に挙げられるでしょう。メルボルンに引っ越したタニア母娘の自宅を突き止めて、鍵のかかった室内に強引に入ったものの、母娘には逃げられてドタバタを演じてしまう役人のぶざまな様子・・・。かつてのウィルの音楽仲間であっても音楽会社の役員となって権力を握ってしまうと、外面的には愛想よくタニアに接しても、彼女の頼みごとに一定の距離を置いて冷たく突き放す態度など・・・。そこには、オーストラリア的特徴といわれるメイトシップ(仲間意識)の揺らぎも読み取れます。
  
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↑ ↑ 写真説明 (左: タス監督とアラーナ/右: エイミーの家の前での撮影風景)
 
また、今は亡き人気ロック歌手ウィルの妻だと知ると、タニアの気持ちも顧みずに悲劇のヒロインをスクープしようと、彼女に容赦なくシャッターを切るカメラマンに見られる、他人の心のなかに土足で入ってくる人たちの態度・・・。そのような人たちと比べると、タニアとエイミーを取り巻く下町に住む人々は、日常生活のなかで些細ないさかい事はあっても、ほのぼのとして温かな雰囲気をかもし出しています。ばらばらに見える個性的で連帯感のないような人たちが、エイミーが行方不明になったときに捜索のために力を合わせる力強さ・・・。
  
そして、この映画のなかで特筆すべきは、なんと言ってもエイミーを演じるアラーナ・ディ・ローマの演技力でしょう。可愛さと大人びたおしゃまさが同居する9歳という女の子の姿を好演しているばかりではなく、さらには口もきけず耳も聞こえないというハンディを背負ってしまった難しい役柄を見事にこなしているのです。小さな口から情感いっぱいに歌い上げられる大人の愛の歌・・・、また後半で、メルボルンの街にさ迷い出てしまって我が家に帰るに帰れなくなってしまったとき、地下鉄の連絡通路で浮浪者の横に立って歌を歌って通行人から小銭を得て、パンを買って夜の公園のベンチでかじりつく姿のたくましさ・・・。その一方で、母親の留守中にロバートと公園に出かけて、楽しく駆けずりまわるときに見せる純粋な子供らしさ・・・。
 
アラーナの演技もさることながら、この少女からそのような演技力を引き出したタス監督の技量も脱帽ものです。また、繊細な神経の持ち主でいながら、気性の激しいエイミーの母親のタニアをレイチェル・グリフィスが好演し、ロバート役のベン・メンデルソーンも、他人との関わりを避けているようでいて、実は他人からの干渉を人一倍受けたがっているような心根の優しい人物像を、エイミーやタニアとの絡みのなかから演じきっているのです。
 
また、この映画の魅力はメルボルンの様々な街の表情を目にできることでしょう。エイミーたちが住んでいる下町は、メルボルンの西部にある軍需物資工場跡地の路地を利用してセットを組み立てたものの、タニア母娘とロバートが住む二軒の家だけは実際の家屋が使われたそうです。この二軒の家は室内も舞台の背景として何回となく映し出されますが、セットではなく現実生活で使われているものなので、下町の生活の雰囲気がリアルに再現できています。そして、トラム(路面電車)の走る市街地の景観や、エイミーとタニアが診察帰りに乗るトラムの車内の様子、夜の街をさ迷い歩く間にエイミーがたどり着く波止場の夜景など、いずれもが登場人物の心象風景とマッチして一幅の絵になっているのです。
 
さらにオーストラリア的景観としての見どころは、冒頭に出てくるタニア母娘が住んでいる平原の一軒家でしょう。メルボルンの50キロ西方にある、20年近くも放置されていた実在の農家を修復して使ったそうです。だだっ広く赤茶けて乾いた大地にぽつんと建つ一軒の農家・・・、そしてその人口希薄な田舎からメルボルン市街へやってくるまでのバスの車窓からの眺めは、まさに豪州そのものといえましょう。すなわち人口の密集した街から数十キロも車で走れば、そこは人家のないまったくの希薄な大地になってしまうということなのです。言い換えれば、何もない広い大地に人口の密集した大都会が忽然と姿を現すという景観です。
 
最後の場面で、タニア、ロバート、アーカート医師が公園のライブ会場にいるエイミーをようやく見つけ出す。アーカート医師はタニアとともに、パパの死がエイミーのせいではない事を根気よく彼女に話して聞かせる。エイミーはパパの死が自分の不注意からではないことを納得して、パパの死を受け入れる。タニアもまた、夫の死を娘とともに真正面から受け止めて生きていく決意をする。気持ちよく眠っているエイミーと、タニア、ロバートを乗せたタクシーが、明け方の雨上がりのメルボルン市街を我が家へ向かって走っている。車窓からはまだ人気のないビジネス街や、朝の活気づきつつある市場の風景が流れ去っていく。これから、また新しい一日が始まるのだ。
 
スクリーンを見つめる私たちの心も、明け方の雨に洗い流されたように、すっきりとした温かなぬくもりの快さで包まれていきます。何度観ても、同じ個所で涙し、笑い、胸をしめつけられ、そして感動を与えてくれるのです。この『エイミー』という映画は人の心を裏切らない、飽きのこない秀逸な作品であると思うのです。
 
 
  
●作品データ  『エイミー』(Amy, 1998)、製作国:オーストラリア/上映時間:104分(カラー作品)/劇場公開:1999年  [スタッフ] 製作:デヴィッド・パーカー 他/監督:ナディア・タス/脚本:デヴィッド・パーカー/撮影:デヴィッド・パーカー/音楽:フィリップ・ジャド  [キャスト] エイミー:アラーナ・ディ・ローマ/タニア:レイチェル・グリフィス/ロバート:ベン・メンデルソーン/ウィル:ニック・バーカー  [DVD販売元] ポニーキャニオン/2004年/3,990円(税込)  [おすすめ度] ★★★★☆
 
◆オーストラリアン・シネマ・スペース : 作品データ『エイミー』 ⇒ http://www016.upp.so-net.ne.jp/kangaroo/amy-data.html

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豪州映画『マルコム』(1986) [豪州映画]

メルボルンに住むマルコム(コリン・フリールズ)は対人関係が苦手な風変わりな青年である。同居していた母を亡くしてからは、持ち家に一人で暮らしている。人と接するのは苦手だが、新しいものを発明して作る才能には恵まれている。家のなかでは発明品を自在に作動させ、メルボルンの市街を模した大きなジオラマのなかで何台もの模型のトラム(路面電車)を走らせている。そう・・・、マルコムは無類のトラム好きで、仕事場もトラムの修理工場なのである。そんな彼は仕事の合間に「特製トラム」を作って、終電後の時間帯に市街地を走らせて楽しんでいた。この行動が会社に知られることになって解雇されてしまうのである。

失職したマルコムを心配したT夫人(バーヴァリー・フィリップス)は、空き部屋に下宿人を置いて収入を得ることをすすめる。そして間借り人になったのが、フランク(ジョン・ハーグリーヴズ)と恋人のジュディス(リンディ・デーヴィス)。実はフランクの稼業は泥棒で、前科もある身であった。荒っぽい性格で、何かというとパブで暇つぶしをするが、どこか憎めない性格。ジュディスは、そんな彼と罵りあいながらも放っておけない母性本能の強い女。malcolm_a.jpg彼女は子供のような青年マルコムにも、母親のような感情を持つようになる。そんな3人・・・、マルコム、フランク、ジュディスの奇妙な共同生活が始まり、人付き合いの苦手なマルコムも二人には心を開くようになる。

フランクは盗んだテレビをマルコムにやるが、マルコムはお返しにと特製の自動車を作ってプレゼントする。その自動車で二人はドライブに出かけるが、途中でバッグの中身を道路にぶちまけてしまった人を目撃する。フランクはその人を助ける振りをして金品を盗んでしまう。そのために二人はパトカーに追いかけられる破目になるが、マルコムの指示でフランクが助手席のレバーを操作すると、何とその車は真ん中から縦に割れて二台の乗り物になってしまう。スクーターの上に自動車のカバーがかかったような奇妙な二台の乗り物は街中の細い道を通り抜けて、パトカーの追跡を巻いてしまうのである。

一方、ジュディスは近所のジェニー(ジュディス・ストラットフォード)がマルコムに好意を寄せているのを知って、二人の仲を取り持とうとする。けれどもマルコムは、トラムに関するありったけの知識をジェニーに披瀝するのみで、男女の関係は進展しないままに別れてしまう。

マルコムはフランクの仕事・・・、強盗に関心を持ち始める。フランクからもらったテレビをモニターにして、実際に現場に行かなくても遠隔操作で銀行強盗ができる装置を考案する。そして、フランクとジュディスに銀行強盗を持ちかける。試行錯誤を繰り返して計画が現実味を帯びてきたところで、3人は銀行強盗を決行する。決行の前夜、彼らは銀行に設置してある灰皿付のゴミ箱とまったく同じ形のものを置き換えることに成功する。置き換えたそのゴミ箱の底には移動用の車輪が付き、またゴミを捨てる側面の投入口にはレンズが付いていて、離れた場所にあるモニターにゴミ箱の周囲の状況が映し出されてリモコン操作できるという優れものである。

銀行強盗の日・・・、三つのゴミ箱は遠隔操作で人間のように動き回り、警備員を襲撃して現金をせしめてしまう。3人を追ってきた警官には、銃を持った等身大のネッド・ケリー人形が応戦する。その合間に、彼らはマルコムの作った「特製トラム」に乗ってまんまと逃走してしまうのである。

Malcolm : Movie Trailer (YouTube) ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=ts6LsfMeBdU

ナディア・タス監督のデビュー作となる豪州映画『マルコム』(Malcolm, 1986)は、機械いじりが好きで様々なものを発明するのが得意でも、社会生活に適応するのが苦手な、いわゆる大人になりきれない青年を主人公にしています。喜劇的要素と悲劇的要素が微妙に混ざり合って、豪州国内では高い評価を得た作品です。日本では劇場未公開で、1986年の「ぴあフィルムフェスティバル」と、1988年の「オーストラリアン・シネマ・ウィーク」では上映されていますが、私は見逃していたのです。

このタス監督・・・、熱心な映画ファンの方なら記憶に残っているかもしれません。第6作目となる『エイミー』(1998)が日本でも話題になり劇場公開もされて、監督自身も来日しているからです。この『エイミー』については、また日を改めて紹介したいと思っています。

さて『マルコム』という映画・・・、諜報部員007も顔負けの(?)、自動車が縦に真っ二つに割れて運転席と助手席の部分がそれぞれ並行して道路を走っているスチール写真があまりにも印象深かったので、malcolm_b.jpgどういう内容なのかを確かめたくて、いつかは観てみたいと思っていたのです。ビデオ(VHSテープ)は発売されたものの廃盤になってしまっていたのですが、幸運にも《SHIBUYA TSUTAYA》(東京・渋谷区)で見つけることができたのです。

この映画を観てもっとも強く感じたのは、いわゆるオーストラリア的といわれている素材や国民性が随所に取り込まれていることです。作品の舞台はメルボルンで、この都市の象徴ともいえるトラム(路面電車)が重要な役割を担っています。そう・・・、メルボルンはシドニーと違って未だにヨーロッパの面影を色濃く残し、トラムが街のなかを網の目のように走っているのです。とはいっても、ここで重要な役割を果たしているトラムは、主人公マルコムが作り上げた「特製トラム」なのです。彼は実際の軌道を走ることができる、運転席部分だけの「特製トラム」を作ってしまったのです。

物語は、そんな「トラム」を仕事中に作ってしまったがために職場であるトラムの修理工場を解雇されてしまったマルコムと、彼の家に下宿を始めた「こそ泥」のフランクと恋人ジュディスの3人が、マルコムが発明した道具を使って銀行強盗を企てて、まんまと成功してしまうという話なのです。「特製トラム」が登場するのは冒頭とエンディングですが、特にエンディングに登場する時には、運転席後部にだけ取り付けてあるトラムのカバーによって、まるで本物のトラムが走り去っていくように見えるのです。もちろん、運転席には盗んだ金を持ったマルコムたち3人が乗っているのですが、追いかける警官たちの目からは見事にカムフラージュされているのです。

また、マルコム、フランク、ジュディスの3人の境遇も重要な鍵となっています。マルコムは発明をしたり何かを作ったりすることは得意ですが、人付き合いが下手で社会生活に適応できにくい人間です。フランクの生い立ちはジュディスがマルコムに語って聞かせる場面でわかるのですが、彼は根っからのワルではなく屈折した過去を背負っていて、子供時代に父親の死に際して受けた警察の仕打ちに悪い印象を抱いている男なのです。そしてジュディスといえば、そんな二人の男を見捨てることのできない母性本能の強い女で、その日暮らしの家計を得るためにパブで働いています。

彼らはそれぞれが持つ社会的不器用さを補い合いながら、メルボルンのダウンタウンの片隅で生活しています。また、マルコムの家の近所に住む雑貨屋のT夫人は、マルコムの日常生活に何かと世話を焼くおばさんです。彼女の店に客としてやって来た警官に対して、敵意ともいえるつっけんどんな態度で接する姿が興味深いのです。タス監督は、このような社会の底辺(片隅)で暮らしている人々の様子を、温かく見守りながら描き出しています。

T夫人が警官に対してとる敵意ともいえる態度とともに、後半でマルコムたちが銀行強盗を企てる場面で想起されるネッド・ケリー伝説に象徴される、庶民が官憲や特権階級に対して抱く反抗的感情もオーストラリア的特質の一つでしょう。ネッド・ケリーは19世紀の中頃に貧困のなかで育ち、幼い頃から警察からは何かというと白い目で見られていました。大人になってからは、彼はそのような富の不公平さに不満を抱き、官憲の横暴に反抗して各地で銀行強盗を企て、盗んだ金は貧しさで苦しんでいる人々に分け与えていたのです。そんな彼の行動に、一般大衆は喝采を送り英雄視するようになりました。では、このような感情が国民的特質とまでいわれるようになったのは、どのような理由からでしょうか。

豪州という国の成立を考えたときに、囚人(流刑囚)の存在は避けては通れない問題です。彼らこそが、この国のインフラを過酷な環境のなかで整備してきたのですが、彼らを取り締まる官憲や権力に対しては根強い反抗を抱き続けてきました。そして、この島大陸に囚人が送り込まれた当時の英国の社会状況は、社会の最下層に属する人々に対しては非常に過酷だったのです。豪州の人々が心の奥に抱いてきた気持ちは、当時の英国の社会状況を抜きにしては理解することができません。

そこで少し説明が長くなってしまうのですが、この豪州という植民地へ囚人が送られてきた経緯と、当時の英本国の社会状況を述べておくことにしたいのです。ちなみに、当時の社会状況はチャールズ・ディケンズの小説のなかにも描かれています。

流刑制度が英国で本格的に採り入れられることになったのは1718年からであり、流刑の判決を受けた囚人は主として米国の南部植民地へ送られていました。南部植民地では、設立当初から年季奉公人という半奴隷的身分の白人が、黒人奴隷の輸入に先立って働いていたのです。そこで、英国政府がまず商人や船長などの請負業者に流刑囚を売り渡し、請負業者は植民地の農園主に年季奉公人というかたちで囚人を売りさばくという方法を採り入れて、流刑制度を実施していたのです。

ところが1776年の米国の独立によって、囚人輸送は不可能になってしまいました。ちなみに、1718年から75年の間にヴァージニアへは約2万人、1746年から75年の間にメリーランドへは9,360人の囚人が送られたといわれています。流刑囚の送り先を失ってしまい国内の刑務所も飽和状態に達していたために、英国政府は、テムズ川に浮かべた船のなかに囚人を収容するという手段をとることになりました。けれども、そこは常に満杯の状態であり、そのうえ暴動や伝染病のおそれも発生してくるにつれて、政府は新しい流刑地の決定を迫られることになったのです。

ところで英国は、国の内外に多くの代償を支払い、さまざまな問題を抱え込みながら、世界最強の植民帝国を築き上げてきました。対外的には、スペイン継承戦争(1701-13年)、オーストリア継承戦争(1740-48年)、そしてフレンチ・アンド・インディアン戦争(1754-63年)に勝利を得て領土を拡大しつつも、多くの負債を背負いこむことにもなっていました。また植民地化されたアイルランドとの間には、宗教的対立も加わって絶えず紛争が続いていて、多くの政治犯や貧窮者が生み出される要因にもなっていたのです。

さらに、18世紀の後半から始まった農業改革は産業改革の進行とあいまって、イギリス国内の社会状況を大きく変化させることになりました。この時期は、医学の進歩や人口抑制に対する国民の意識の変化などによって、国内人口が急激に増加していたのです。アイルランドも含む国内人口の推移をみてみると、1701年に940万人であったものが1751年には1,050万人となり、1801年には1,600万人へと急増しているのです。

急激な人口増加で増大する食料需要に対処するために、農村部では農業改革が行なわれ、最新の農業技術を導入して生産性の向上が図られることになりました。けれども新しい技術を採り入れるためには、多額の資本が必要でした。このために政府が後押しする第2次のエンクロージャー(囲い込み運動)が行なわれて、英国農業は資本主義的大農経営へと移行することになったのです。これによってヨーマン(独立自営農民)は没落し、資本を持った大地主のもとで働く農業労働者が生まれることになったのです。

資本主義的大農経営の導入によって土地や仕事を奪われた人々は、農村部からロンドンを中心とする都市部へと移動していきました。けれども産業革命の開始にともなって、都市部では機械化による大規模生産を目指す企業資本家が台頭していました。彼らは従来の手工業者に代わって、その地位を築きつつあったのです。このために、都市部へ流れ込んだ多くの人々は、企業資本家のもとで賃金労働者として働くことになりました。

工場では生産力の向上が最優先され、労働者は不衛生で安全性の低い職場環境のなかで低賃金と長時間労働を強いられて、その生活は悲惨きわまりないものだったのです。それでも仕事を得ることのできた人々は、まだよかったほうかもしれません。人口の急増する都市部では、さらに多くの仕事に就けない人々や、劣悪な労働環境から逃れてきた人々が浮浪者的生活を送るようになっていたのです。

ロンドンを中心とする都市部の貧民窟は、犯罪の温床となっていました。社会の底辺で生きる人々のなかには、自らの未来に絶望して刹那主義的になり働くことを厭い、犯罪のプロになっていく者もいたのです。けれども、いくら働いても暮らし向きが少しもよくならない最下層の人々が、不当ともいえる社会的貧富の差のなかで、やむにやまれずに犯罪に走ることも多かったといえます。物質的に困窮している人々ゆえに、他人の財産に手をつけるという強盗や窃盗などの犯罪が圧倒的に多く、障害や殺人事件は非常に少なかったのです。また女性の場合の行き着くところは、自らの体を売って(娼婦として)その日を生き延びることでした。

悪の道に踏み込んだ人々に対して、当時の英国政府の処罰は必要以上に厳しく、詐欺や窃盗でも死刑が求刑されるほどで、流刑を宣告される人々も急激に増えていきました。罪の軽重に応じて、彼らには7年、14年、あるいは終身の流刑判決が言い渡されていたのです。窃盗であろうと強盗であろうと、また殺人や傷害事件であろうと犯罪に変わりはありません。けれども、人間は弱い者です。社会的環境が過酷だったからといって犯罪を正当化するつもりは毛頭ないのですが、豪州という国の成り立ちから国民性を考えるときには権力側や体制側よりも、むしろ一般民衆の立場に視点を据えて歴史をとらえるべきではないかと思うのです。

ネッド・ケリーは警官たちとの銃撃戦のときに、頭に円筒形の冑(かぶと)をかぶっていました。銀行強盗を企てた時にマルコムたちが使ったリモコン操縦の円筒形のゴミ箱や、円筒形の冑をかぶって二挺拳銃で警官たちと応戦する等身大の人形は、オーストラリア人には直感的にわかる馴染みの光景なのです。

これらマルコムの発明した道具は、ごく普通の日常用品を利用して作られていて、拳銃や小型の爆発物も脅かすためのもので人を傷つけるものではありません。作戦が成功してまんまと金を奪って逃亡が果たせた時に、犯罪であることはわかっていても、思わずやったとマルコムたち3人に拍手を送ってしまいたくなるのです。今日の映像技術であればCGなどで奇想天外な発明品をもっと映像化できるでしょう。けれども、この映画に出てくる発明品はすべて手作りで、映像もアナログで撮ったものなのです。

それだけに、どこか温かみがあり、これらのアイデアを提供したといわれている脚本担当でタス監督の夫でもあるデヴィッド・パーカーには、この作品の最大の功労者として惜しみない拍手を送りたいと思うのです。そして、これらアイデアが映像化された個所を見るだけでも楽しく笑えて、見終わった後もどこか心が温かくなり、爽やかにすらなってくるのです。また、コリン・フリールズの少し猫背にして人々の視線を避けるようにして街のなかを歩く姿は、社会生活のなかに溶け込めない大人になりきれないマルコムの雰囲気をよく表現しているといえるのです。

最後に、豪州の成り立ちを少し詳しく述べたのは、日本では外国=米国という認識が未だに強いことから、同じ英国から派生した国でも豪州と米国では国民性などが微妙に異なることを歴史的に概観してみたかったからなのです。

  

●作品データ  『マルコム』(Malcolm, 1986)、製作国:オーストラリア/上映時間:90分(カラー作品)/劇場公開:未公開(映画祭で上映)  [スタッフ] 製作:ナディア・タス 他/監督:ナディア・タス/脚本:デヴィッド・パーカー/撮影:デヴィッド・パーカー/音楽:サイモン・ジェフズ  [キャスト] マルコム:コリン・フリールズ/フランク:ジョン・ハーグリーヴズ/ジュディス:リンディ・デーヴィス/T夫人:バーヴァリー・フィリップス/ジェニー:ジュディス・ストラットフォード  [ビデオ] VHSテープで発売されているが、廃盤で入手困難

◆オーストラリアン・シネマ・スペース : 作品データ『マルコム』 ⇒ http://www016.upp.so-net.ne.jp/kangaroo/malcolm-data.html


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